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土屋高輝さんを悼む

土屋高輝さんと初めてお会いしたのは、共通の友人であった和田典久氏の紹介が切っ掛けだった。その頃北新宿にあった私の事務所に和田氏と一緒にお出でになられたのは、記憶は定かではないが確か平成12年の春の頃だったように思う。しかし、お会いする以前から時折、和田氏から「あなたに是非会わせたい御仁がいる」という御話は聞いており、その和田氏の説明する土屋さんの人物像が、とても破天荒で魅力ある印象が深かったので、直接お会いするまでの間も私の頭の片隅に土屋さんのイメージは棲みついていた。そして確かに、最初の挨拶の懐かしい“薩摩弁”とともに、朴訥な中にも一種武士道的精神を備えた土屋さんの立ち振る舞いに、私はもう何年もあっていない旧友に会うような感覚に捉われたのだ。その後、私の方から頻繁に土屋さんに声を掛けて、時には事務所で、また時には居酒屋で、経済を語り、政治を語り、そして世界を語った。その頃の私は、父を亡くした直後であり、また自らの人生を振り返りながらそれから先の“生き方”に自信を少々失いかけてた時であり、家族や友人、仕事仲間とはまた違う環境を求めて、空いた時間に肉体労働のアルバイトをしていたのだが、酒の酔いも手伝い、つい土屋さんの優しさに甘えたのだろう。私はある時、土屋さんから「あなたの言葉を聞いていると逃げの言葉が多すぎる!」と一喝されたのだった。友とは言え、5歳の年齢差の土屋さんは私にとって、先輩であると同時に兄でもあり、ともすれば人の言葉にいつも反論しながら生きてきた私であるが、その時は何故か土屋さんの言葉を素直に受け入れることが出来たのだった。自分ではなかなか気づかなかったマイナーな生きる姿勢に対する、土屋さんの真正面からの“喝”は“檄”でもあった。思い返せば、この土屋さんとの出会いにより、私は事業意欲とともに生きていく気持ちも180度ターンしたのだろう。そのような土屋さんとの付き合いが短くも終わるとは夢にも思わなかった。というのは、土屋さんが新たな活躍の場を名古屋に求めて東京を離れたのだった。「明日名古屋へ向かう」という土屋さんと荻窪の居酒屋で“最後の酒”を交わしながら語った内容は、まるでこれから戦場へ赴く友との別れのような雰囲気があったことを今でも覚えている。しかし、実は話はこれでは終わらなかった。それは、私と土屋さんにとっての第二幕が次に控えていたとは想像だにしない、別れの酒だったのだ。土屋さんが名古屋へ赴いてから二月ほど経った頃、名古屋を豪雨が襲い、後にそれは「東海豪雨」と名付けられたのだが、土屋さんが勤務する天白区の印刷会社もビルごと水につかったのだった。当然安否を気遣った私はすぐ土屋さんと連絡を取ったのだが、土屋さんは沈着冷静にも、ご自分のことよりも会社のことを右往左往するその経営者以上に考え行動しようとしていた。ここでも、土屋流武士道的経営思考とでもいうべき、また薩摩っぽの性格かもしれないが、そのような土屋さんの行動は、当然経営者とぶつかるのは避けて通れない。そのような、土性骨の強い土屋さんを再び東京に舞い戻らせた要因の一つは、私自身がまた再び友とまみえることを願って土屋さんを口説いたことにもあるだろう。私は、現場仕事が終わるとそのまま車で名古屋へ土屋さんを迎えるべく一路向かったのだった。水害の後始末はまだ残っていたが、土屋さんのアパートから家財道具一式を積み、そのまま東京へUターンした。これを切っ掛けに私と土屋さんの第二ステージは幕を開いたのである。とりあえずは、東京での新たな出発を誓う土屋さんを半ば強制的に我が家へ同居させ、私と土屋さんの事業コラボを始めることになった。「新規事業決起集会」などと銘打って、北新宿の事務所で先述の和田典久氏、そして土屋さんのご子息の有君なども参加して、盛大な“飲み会”を開いたことを今でも時折思い出す。そのようにして、土屋さんと私の共同生活と共同事業が始まったのだが、ともに「商売道」をトコトン突き詰めるタイプではないことを多分土屋さんも私のことをそのように思っていたのではないだろうか。二人がある事業計画を討議する時も、最後は「政治論」「人生論」のような話になり、そしてお互いに共通する文学的感覚とでもいうべきか、「信条」ではなく「心情」を優先する話に気持ちが昂ぶって来るのである。少なくとも、この時私たちは数十年前の「世界を変えたい」という若き学生時代に舞い戻っていたのである。土屋さんの学生運動との詳細な関わりは知らないが、フランス文学を専攻されていた土屋さんには、いつも「パリ5月革命」のカルチェラタンの印象が胸の思いにあったように思える。土屋さんは一方では冷静に現状を分析し、理路整然な行動を規範としつつも、もう一方では人間に対する根本的な優しさで、どのような相手でも包み込む深さを備えていた。土屋さんのまなざしの優しさはそれを物語るものだろう。この共同事業においては、このような土屋さんの幅広い人脈とその人間性が、また私にとっても新たな人間関係の幅を広げていったのだった。そのような土屋さんが、今から思えば、人生最後のステージを故郷宮崎に移したのは、平成13年だっただろうか。私も土屋さんも、現実的な利益確保を目的とする事業に全身全霊を打ち込む(※土屋さんは良く「全知全能を傾ける!」という表現が好きだった!)には、余りにもいろいろな人生経験を積んでおり、単なる利益稼ぎの商売では、その存在を満足させることは出来なかった。とはいえ、身近な人を大事にする土屋さんの家族愛は慎み深くも大きいものであり、多少の望郷の念も手伝ったのではないだろうか。しかし、土屋さんは、故郷宮崎においてまた新たな試練と壮絶な闘いに挑んでいくのである。串間市を相手に堂々と決して譲らない裁判闘争は、「蟷螂の斧」とは知りつつもそれをやり抜くという土屋さんの姿勢は、最初に私が土屋さんから一喝された「逃げるな!」というあの言葉を吐く土屋高輝という存在の一つの本質だった。裁判の勝ち負けではなく、まさに「心情」を「信条」に転換してやり抜くことにその意義を見出したのだ。しかし、現実の裁判闘争は時間的、空間的、経済的にもかなりな労苦を伴ったことだろう。そのことが皮肉にも土屋さんの肉体を蝕んでいたとしたら、もし神と言う存在があるとすればあまりにも非情ではないか。さて、土屋さんとの思い出をつづりながらの哀悼文になってしまったが、思い出をかき集めればまだまだ書きつくせないほどである。土屋さんと最後にお会いしたのは、旅立つ二月前の5月31日、娘さん一家がある東京世田谷の尾山台だった。ここは、私が通った大学がある懐かしい場所であり、それにも土屋さんと私のつながりの不思議な縁を感じるのである。この時は、お互い夫人同伴の短い時間だったが、それでも非常に血色のよい、お元気な土屋さんと酒抜きとはいえ、会話は弾んだのだが、そのわずか一月後に、「上京した」という土屋さんからのメールを頂いた。そして、そのメールには、「余命1か月を宣告された。セカンドオピニオンを求めるために上京した」という返事とともに、「やはり(余命1か月という)同じ見解だった」という文字が何故か冷静な感じで書いてあった。私はとっさに「余命なんて医者が決めるものではないですよ。宣告されてもずっとピンピンしている人はいます」と即レスしたが、いまから思えば慰めの積りで書いたのだろうが、私の心は何とも言えない複雑な揺れを感じた。しかし、土屋さんの覚悟はどこかで決まっていたのだろう。7月13日付のメールをそのまま転記したい。「既に人生の整理を始めています。整理と最期の準備はしていますが、最後まで諦めずに静かに頑張るつもりです。著作として<ドキュメント・串間の真相、日本の深層>、更に、<我が転戦記>を出すことにしました。そうです、余命は自分で決めます」

最後まで土屋式武士道とも言える規範を曲げることなく旅立った土屋高輝さん、あなたからはいろいろなことを教えてもらいました。私がそちらへ行くにはまだ少し時間がありそうですので、そちらでお好きだった『百万本のバラ』でも歌いながらお待ちください。私だけでなく、あなたの友だった方々もきっとまたそちらでお会いすることができるでしょう。その日まで、さようなら。

 

平成28年8月21日

 

川口武文

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