仮想通貨

金融経済については余り知識はありませんが、というかもともと興味が無いのですが、とはいえこの社会に生きている以上、金融(カネ)が私自身の物質的生活基盤の要諦となっているのは事実でありそこから逃れることはできません。さて、今年の2月、東京三菱UFJ銀行が、「仮想通貨」を発行することを発表しましたが、一部の人を除きそれほど大きな話題にはなりませんでした。大概に言えば、「仮想通貨」とは以前問題となった「ビットコイン」のことです。10年ほど前でしょうか、セカンドライフと言うバーチャル空間ビジネスが一時流行りました(今はどうなっているか?!)が、その中で使用されていた「リンデン$」というバーチャルな通貨がありましたが、これと同じものかと思った所、どうも違うようです。この領域の専門家によれば、リンデン$とビットコインの違いは、発行主体にあるとのことで、リンデン$の場合は、セカンドライフの運営会社が発行主体ですが、一方のビットコインには発行主体というものが無い、というか「しいていえば、ビットコイン取引に参加するコンピュータ全体である」とのことらしいのですが、政府日銀発行の紙幣通貨になれている私にとっては、ちょっとイマイチ理解できないものです。もう一つの説明では、現在流通している通貨紙幣が各国家(の中央銀行)という中央集権的取引性格だとすれば、ビットコインは「分散型取引」であるということです。このような「仮想通貨」を発行するとした三菱UFJの説明によると、「独自の仮想通貨として「MUFJコイン」を開発中であり、これはビットコインの技術をベースとしている」「まずは「行内通貨」として実験を行い、可能性が実証されれば円と交換できるようにし、一般ユーザー向けに解放することも検討する」と述べています。一方、メガバンクがこのような「仮想通貨」の開発に乗り出した本質的狙いとして、別の要因も考えられているようです。すなわち、コンピューター上の「通貨」と人工知能(AI)による接続が、現在不透明な形で行われている貨幣需給(量的緩和金利政策等)をより適正に安定的に調節することが出来るようになりインフレ・デフレの防止策となる、というものです。これについては、日本政府もこの主旨を明言はしていませんが、三菱UFJの発表後、金融庁が「仮想通貨」を「法定通貨」として認める準備(法整備)を検討しているとの報道がされています。小さい時、親からもらったお小遣いで駄菓子屋でお菓子を買った時から、時々の親を始め社会からの「額に汗して働いた結果」としての道徳的説教もあった「お金」には、そこに印刷刻印された数字的価値以外の、人間が社会的動物としてのより根源的価値も含まれているかのように感じたものです。給料袋に現金が入っている時の“感動”は銀行振り込みという機械的な仕組みに変わりはしましたが、それでもATMを操作すれば、そこには物質的には殆ど価値のない金属と紙ではあるものの、やはり「人間感情」としての“喜び”はあるものです。しかし、それが、コンピュータやスマホなどによる一つの「情報」としてしか機能しなくなることは、先述のインフレ・デフレの効率的適正管理によって景気動向に左右されてきた人間の経済暮しが安定するという効果と果たして取引できるだけの価値があるものか、疑問に思うところです。もっと端的に言えば、インフレ・デフレの繰り返しは、ある意味人間経済活動の本質的なことであり、これを適正にコントロールできることなど所詮無理であり、もしそれを可能にするとすれば、人間自身がその人間自身の本質そのものを変えていくことしかあり得ないのではないか、と思う次第です。

 ★「仮想通貨」については、ウイキリークのジュリアン・アサンジがその可能性と効果について、「管理国家VS市民」という構図から述べていますが、確かに一時議論された「地域通貨」と概念的に重なるところもあり、本論でのべた「中央集権管理VS分散型管理」という構図とも重なるので、そこの部分ではその可能性を肯定することはやぶさかではありませんが、いずれにせよ、我々の生殺与奪を握る「通貨」がAIと連動することの“怖さ”の想像力を膨らませる必要もあるかもしれません。

 

<低炭素都市ニュース&レポート8月号より>