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オリジナルと複製

ちょっと前にあったオリンピックエンブレム「コピー」騒動ですが、現代の技術はいやおうなしに「複製」を極限に可能とするものです。複製の技術を歴史的に見れば、その始原はまず「写真」に求められ、次いで写真(静止画)を動画化する「映画」が指摘されるでしょう。最近では、立体表現の3Dプリンターなるものまで現れ、果てはDNAのコピーと言う生命原理までをも超越する「複製技術」の進展には驚かされると同時に空恐ろしさも感じるものです。ところで、ドイツの著名な文芸評論家のベンヤミンの著書に『複製技術時代の芸術作品』(1936年)という面白い本があります。ベンヤミンの生きた時代は第1次世界大戦前後のファシズムが勃興して来る時代ですが、彼は「複製の芸術」を新しい時代の民主主義的価値としてそれに評価を与えています。彼に言わせると、「芸術は当初礼拝的価値であったが近代の大衆化により展示的価値を持った。これによりそれまでの一部のものの対象物から万人の対象物と言う性質の変化を遂げた。」ベンヤミンは、「複製技術」の大衆化がそれまでの権力者にその価値を所有されていた「芸術」の解放を述べている訳ですが、しかし、彼が民主主義の発展として捉えた「大衆化した芸術」である映画芸術ヒットラーはじめ、その後のファシズム政治的プロパガンダの強力なツールとなっていることは皮肉なことです。ところで、確かに、現代の複製技術の粋であるコンピュータの発達は、普通の人をも”創作者”に変えることが可能になっています。いろいろなソフトを使うことにより、”自分だけの”作品を作ることができますが、その作品は「コピー&ペースト」という機能を抜きには語れないものです。先日の「コピー騒動」はこの技術の使いまわしが疑われ、芸術の「ホンモノ性」が問われた訳ですが、先述のベンヤミンはこの「ホンモノ」についてこうも言っています。「「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」という性格によってつくられる。」(上記同書)即ち、「いま」という時間性と「ここ」という空間性にオリジナル(ホンモノ)の本質を見ている訳ですが、「複製技術」はまさにこの時間と空間と言う制限を取り払ったものと言えます。ここから先は非常に思弁的というか観念的世界になるのでこれ以上は追求しませんが、複製技術があふれかえる現代社会は単純に「オリジナルが良くて複製は悪い」という道徳的倫理的規範では判断できない時代になっていると言えるでしょう。ベンヤミンの時代は「複製技術」を大衆への解放として称賛したのですが、万人が芸術家になれる時代を果たして「平等」「自由」といえるのかどうか。いや、逆に言えば、究極の芸術の姿が「自由・平等」かもしれません。もう一度ベンヤミンの言葉に戻りましょう。彼はこうも言いました。「人間の製作したものは,たえず人間によって模造されたのである。このような模造を,弟子たちは技能を修練するために,巨匠は作品を流布させるために,また商人はそれでひと儲けするために,おこなってきた。」グローバル化が進む中で、あらゆる事象が「複製化」している時代(いま)と社会(ここ)は果たしてオリジナルと言えるのかどうか。先日のイギリスの「EU離脱」も例えて言えば、複製から離脱してオリジナルな英国を目指したものと言えるのかもしれません。果たして私自身もオリジナルと言えるのか。もしかしたら存在そのものが模写かもしれない。現代社会は、「オリジナル」と「複製」という両極端な価値の間で揺れ動いています。 �
DAIGOエコロジー村通信7月号より(一部加筆)