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自由と平等の対立

フランス革命のテーゼは『自由・平等・友愛』であることは誰もが知っている。このテーゼがその後の民主主義を根本から支える基本概念となったことには誰しも反論しないだろう。そのフランス革命から200年以上経過した現在、しかし、現実の社会は『格差・不平等』が益々世界を覆う状況である。これを民主主義の形骸化として表象的に捉えることも出来ようが、民主主義を歴史上人類の存在に関する合意のとりあえずの最終到達点、として見るならば、なぜそのような状況になっているのか、を考えねばならない。『格差・不平等』の矛盾を生産体制と言う視点からみたマルクス主義が挫折、資本主義を『歴史の終わり』としてその最終勝利を「政治的自由主義」「経済的自由主義」こそが歴史の到達点とした、フランシス・フクヤマの論は耳目にまだ新しいが、冷戦終了後から30年近くを経過した今、彼の論に対する批判を実は彼自らが行っている。彼は言う。「あらゆる政治システムにおいて・・・・自由は特権に変質する。これは権威主義システムだけでなく、民主主義国家においても真実である」(2014年・WSJ)彼は、彼自身が人類の最終歴史と言う到達点に持ち込んだ「自由」と言う概念の変質を嘆いている訳だが、これは「何をいまさら」という気がしないでもない。際限ない自由は放縦(放恣)となり、その結果が不平等を生むとすれば、自由と平等という概念は根本的に対立するものとなるのだが、これは換言極論すれば、「自由なき平等」と「平等なき自由」という観念対立とも言える。言葉を変えれば、「(右翼・左翼)全体主義」と「リバータリアニズム」の対立であり、これが現代社会の基底に流れる二つの大きなイデオロギーではないか。しかし、「自由と平等」をこのような大きな物語的な捉え方ではなく、個人の問題として還元した時に見えてくるものとして、「自由なき平等(社会)」が依拠するのは「弱者(弱い個人)」であり、「平等なき自由(社会)」が依拠するのは「強者(強い個人)」と言えないだろうか。フランス革命の始祖とも言えるルソーはこのような「自由」の行き過ぎを危惧し、彼自身は自由よりも平等を重要視した。彼が出した一つの解は、「(危険な)自由を平等の中に取り込む(自由を平等化する)」という「平等主義的自由」というものであり、それはまさにフクシマが言った「特権化した自由」の封じ込めともいえる。すなわち、ルソーは「個人(強い人間)のエゴが出るからこそ平等でなければならない」としたのだが、これに反して、ルソーの後に出たトクビルは全く真逆の論を持ち出した。彼は、「デモクラシーが持ち込んだ平等化が結局は個人(弱い人間)のエゴイズムを生みだした」と分析した。この論理の対立は、例えば生活保護を巡る論説、或いは正規、非正規雇用を巡る論説にも通じるものである。
さて、少し観念論的過ぎた感があるが、何を持って弱者(或いは強者)と為すかは、いろいろ議論もあるだろうし、またある個人が絶対的な弱者(或いは強者)という存在になることもありえないだろう。しかし一般論的に解釈することなく現実を見れば、乱暴な解釈だがやはり「金を持つもの=強者」であり、「金を持たないもの=弱者」といえるのではないか。そこで「たかが金されど金」という堂々巡りする循環論に陥ることなくどうすればよいかを根本から考える必要があるのだが、そのヒントは、やはり身近なところにあるように思えるのである。前述のフクシマはこのようにも言っている。「裕福な人のほうが政治システムに質のいいコネを持っていて、自分たちの利益促進のためにそのコネを利用することができる」のである。しかし、彼らとて決して自由ではない。最後にもう一度ルソーの言葉を記す。「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼等以上に奴隷である」(社会契約論)
ああ、悲しや、汝の名は人間。。。。。