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奄美墓参行道中記

○故郷墓参行の決意

故郷への長期の不義理をいつもどこかで感じながら過ごしていたのだが、「格安チケットがある」という単純かつリーズナブルな話があり、数年ぶりの故郷墓参行をしてきた。私の故郷は奄美大島である。最近合併により奄美市という名前に変わったが、正式な旧名は鹿児島県大島郡笠利町大字和野(わの)というところだ。奄美本島の北部太平洋側に位置するサンゴ礁バリアに囲まれた小さな海辺の集落だったが、35年前の海上空港建設工事でものの見事、サンゴ礁は全滅してしまった。幼少から学生時代は毎年ここで夏を長期に過ごしたものだが、それも今は追憶の中にしかない風景となってしまった、、、、、と、思っていたのだが、在京の従兄弟から「潜ったら珊瑚が再生していた!」という話を聞き、居ても立ってもいられぬ気持から今回の墓参行を決意した。とは言え、通常の航空運賃であれば、同じ島嶼でもハワイ・グアムへの旅行をやってもおつりが出るくらい、高額な料金のかかるところであり、片道4万弱円はかかる。それが、なんと片道5000円!往復で1万円というアホみたいな価格だ。ちなみにその信じられない航空会社は最近出来たバニラエアというANAの子会社だ。このような価格破壊奄美大島路線を独占している高額料金会社JALへの闘争宣言か、などと思いつつ成田から飛び立ったのが、10月20日だった。

○離陸前のハプニング

その前に一つ話しておかないといけないハプニングがあったので、ちょっと話そう。今回の旅は先述した珊瑚の海に潜った従兄弟の政文(まさふみ)氏と連れ立ったのだが、成田へ向かう日暮里からの特急電車に同乗していたロシア人夫婦と見える二人連れが日暮里駅のホームベンチにカメラバッグを忘れ車内で呆然としていた。私はとっさの行動で、ロシア人の奥さんと一緒に動いている先頭車両から列車の最後部車両の車掌室まで小走りで移動、車掌に経緯を話し、すぐ日暮里駅に連絡してくれるように頼んだのだが、車掌は「それは出来ないので、次の青砥駅で降車して駅係員から連絡してもらう以外にない」と言う返事。何と通信技術の最先端を行く我が国において、大手私鉄の特急電車から外部へ連絡が出来ない、ということはどういうことか。しかし、そのような問答をやっている間にも、カメラバッグは盗難にあうかもしれないので、「(私が)携帯から日暮里駅に直接電話するので番号を教えてくれ」と言うと、車掌は手帳や書類などを取り出しながら調べるのだが、これまたなかなか見当たらない状況。いやぁ、何たることか!とため息と軽い怒りの気持ちが湧いてきたのだが、何とか列車が青砥駅に到着。私と従兄弟は、自分たちの出発時間のことを気にしながらも列車を降り、ロシア人夫婦とともに青砥駅ホームにある係員室に直行、係員に事情を説明した。駅員はすぐ行動してくれ、待つこと10分近く、「バッグがあった」という朗報があり、言葉が通じないもの同士ではあったが、ロシア人夫婦と私たちは笑顔を交わした。ちなみに、カメラバッグの中には何とパスポートが入っていたとのこと。「いゃぁ、良かった、良かった」という安堵感とともにこれからの短い旅へのちょっとした期待感のようなものも感じながら、私たちは格安航空機への根拠のない飛行の不安をよそに、成田から奄美へと飛び立ったのだ。

奄美空港へ降り立つ

さて、離陸前のハプニングもあったが、“格安飛行機”は不安を払しょくする安定した飛行で時間通り午後4時に奄美空港へ着陸した。ちなみに使用した機材エアバスA320(180名)搭乗者はサーファーやラッパーバンド風グループなど若者などで満席。空港の歓迎口も多分地元の宿泊施設のスタッフと思われる人たちが名前の入ったプラカードを上げながら待っていたのは、奄美が観光の島としてそれなりに成り立っていることを思わせる光景に見える。空港には私の従姉妹にあたり、同行の従兄弟の姉にあたる明美(あけみ)氏が私たちを出向かえてくれた。どのような旅でもそうなのだろうが、やはり出迎えのあることは心強いし、嬉しいものだ。この明美氏とも久方ぶりの再会となる。彼女の車に乗り、私たちの集落へ向かう。集落は空港からものの5分近くにあるが、途中に川口家が眠っている集落の墓地があり、そこをゆっくり通過しながら心の中で亡き父母への帰郷の挨拶をする。今回の墓参行を決意したもう一つの理由があるが、それについてはまた後で話すことにする。

○懐かしい従姉妹たちとの宴会

成田からの旅疲れも感じることなく、私の母の本家にあたる渡(わたり)家で早速宴会が開かれる。本家には、義理の叔母にあたる渡節江(せつえ)氏が一人住んでいるだけである。彼女の連れ合いだった叔父の季和(すえかず)氏は今年の1月に83歳で逝去した。節江氏とはなんと13歳の年の差があるが、心優しいクリスチャンの節江氏のおかげで、叔父は良い人生を送ったことだろう。叔父と結婚した当時の節江氏はとても美しい人だった。「掃き溜めに鶴」という言葉があるがそれほどの美しさであったように記憶する。もちろん今でも齢を重ねたとはいえ、その美しさは変わらない。ちなみに叔父もこの節江氏の影響か、クリスチャンに改宗、名をヨセフと名乗っていた。この叔父と生前に交わした問答も今回の墓参行の重要なポイントだが、これも後で話す。さて宴会だが、出迎えてくれた明美氏と節江氏、そしてもう一人の従姉妹の加代子(かよこ)氏の3人が懐かし島料理の数々を提供してくれた。何という名前か忘れたが、奄美近海でしか取れない、アジに似た魚と自前の味噌をあえた文字通りの「ゆ(魚)味噌」は奄美料理の定番だ。アワビ風のトコブシの燻製、奄美以南でしか採れないサザエ類でヤコウ貝の一種の貝料理も美味である。当然、海の幸の王の伊勢海老も所狭しと並ぶ。幼少の頃、祖父(母の父)が良く採った伊勢海老は緑色に近い色で、大きさも50~60センチはあったように記憶しているが、それよりは幾分か小さめだ。今回の伊勢海老は加代子氏の夫君で私と同年の良也(りょうや)氏が採ったものだという。加代子氏と一緒になる頃の良也氏は地元でもちょっとした名のある不良だったらしいが、同行した従兄弟政文氏の亡き次兄の勝則(かつのり)氏が加代子氏との付き合いに対し、強く彼を諌めたという話で場は盛り上がる。加代子氏は私と1歳違いだが、高卒後、准看護婦の資格を取り、のち正看護婦となった。途中で肝臓を患い闘病を克服したが、看護婦と言う職業は彼女にこそふさわしいと思えるほど、人当たりの良い優しい性格の持ち主だ。また空港に出迎えてくれた明美氏は、来年70の古希を迎え従兄弟連中では年長の姉筋にあたる。性格は豪放磊落、と言ったら彼女に失礼か。しかし、私のイメージの中の明美氏は姉でもあり、母親のような雰囲気もあったように感じたものだ。現在は、地元でも有名な日舞の師範でもあり、お弟子さんも多く、またその姉御肌は、男女問わずシルバー層のマドンナとなっているようだ。懐かしい従姉妹や叔母との久々の再会と島料理をつまみながらの昔話を重ねては笑った帰島第一日目の夜はこのように更けていった。

○従兄弟たちへのコンプレックスと薩摩藩閑話休題

私は小学低学年の頃から、毎年夏休みなると強制的に島へ父から連れられて行ったもので、内心“島送り”とつぶやき、島の従兄弟連中と会うことに大きな抵抗があった。簡単に言えば、島へ行くことは嫌だったのだ。従兄弟連中は、川口家である私と私の妹以外はすべて島で暮らしており、いつも親族における違和感を感じていた。それは、ある意味コンプレックスでもあった。鹿児島市で生まれ育った私にとって、曲がりなりにも都市化・近代化進む鹿児島と違い、本土から20年は遅れていると形容される島の暮らしぶりはまるで異境否秘境の地であると言っても良い場所だった。しかし、従兄弟たちが海で素潜りや魚釣りなどを器用にこなす姿は、当時泳げない運動オンチである私にとっては、コンプレックスとなって益々“島送り”の心境を濃くしたものだった。それとこれは言っておくべきことだが、奄美は薩摩・島津への反感が歴史的に根強い地域である。それは400年前の薩摩藩による奄美併合から続く過酷な搾取と圧政がその原因であるが、特に幕末における薩摩藩の島人に対する搾取は相当酷いものだった。奄美出身である両親から私は幼いころからこのような話を聞かされていた。一方、鹿児島で生まれ育った私は、薩摩藩謳歌の教育を受けることになるのだが、家では薩摩の横暴を聞かされ、学校では薩摩のプライドを注入される私のルーツはその根拠をどこに持つべきか迷うことになるのは必至だった。先述の奄美に対するコンプレックスの裏には無意識ながらこのような感情もあったのだろう。63歳を過ぎた今でも、私はその空間的精神性が漂うバガボンドのようなものだ。今回同行した従兄弟とはこの問題について良く話し合う仲だが、その中でも「西郷隆盛論」はこれらの疑問に少し回答を与えてくれる。西郷隆盛とはもちろんあの西郷であるが、約3年ほどを奄美で暮らしている。しかも我集落にほど近い場所であり、西郷自身も一度我が集落を訪れているという話だ。その時の西郷の行動や言動を後の維新実行、そして西南の役での自刃に至るまでの彼の人間論を議論するのだが、これについてはまた別途機会があれば語りたい。

○墓参とその背景

帰島二日目。昨夜の宴会の名残がまだ残る中、父と母が眠る墓地に入る。多分従姉妹たちが定期的に清掃と墓参をやってくれているのだろう、墓は荒れることなく小奇麗なたたずまいをしている。墓石の周りを丁寧に清め、線香と花を捧げる。ここは、今は奄美空港がその風景を遮っているが、はるか太平洋を望める小高い高台にあり、生前から父母とも死んだ後はここから「故郷の海を眺めたい」と言っていたものだ。従兄弟と一緒に合掌したあと、他の親族の墓を一つ一つ墓参する。さて、この墓については亡き叔父(季和氏)から、「今のままでは無縁仏になる。墓の世話をする人も居なくなる。お前が元気なうちに墓を移せ!」というある意味暖かくも冷たいアドバイスを継続してもらう経緯があった。確かに叔父の言うとおり、10万近い帰島費では恒常的に墓の世話をすることも出来ない。現在の社会の流れから見ても合理的な判断ではあろう。しかし、たった一つの小さな墓とは言え、それは私が何者であるかを物理的に示してくれるたった一つのシンボルであり、また私自身の空間的精神性の根拠の一つでもある。それを無くすことがもたらす精神的喪失性は、叔父を始めとする島在住の親族には表面上は理解できても心の奥にある核心部分については理解不能ではないかと思われる。それは、もっと言えば、定住者と非定住者の根本的な精神的相違であるかもしれない。叔父との墓移転に関する問答は3年近く続き、その間、3度の手紙のやり取りをした。しかし、お互い結論が出ないままに、叔父が逝ってしまったのである。今回の墓参は、この墓の問題に対する自分なりの決着を図らないといけない、という思いもあったのである。

○歳長の従兄弟の見舞い

帰島二日目の夜は、奄美市中心部の名瀬に向かう。従兄弟の中ではもっとも歳長になる勝正(かつまさ)氏の見舞いを兼ねた勝正氏宅での歓迎会への参加のためだ。名瀬と和野集落はおよそ40km離れているが、飛行便などない頃は、鹿児島から奄美まではおよそ12時間の船旅と、その後のバスでのおよそ3時間余りの移動時間をかけて故郷の集落まで来たものだが、年間500億円近い奄美群島振興補助金による公共事業の“恩恵”で、今では40分で名瀬まで行ける。空港もそうだが、得た利便性と失った自然環境との比較の結論はそれほど単純には出るものではないだろう。さて、今夜訪問する勝正氏は名瀬市会議員を5期に渡って務め上げた親族の中でもその行動力が高く評価されている人物だ。昭和19年生まれだから現在71歳だ。ちなみに帰島同行の政文氏と明美氏の長兄でもある。勝正氏はその持前の正義感から奄美出身の徳田虎雄徳洲会理事長に師事し、市議への道を歩んだのだが、心身の体調を崩したことから、折しも市議選最中ではあったが、出馬を見送り市議からの引退を表明した直後だった。師に当たる徳田虎雄氏の徳洲会をめぐる様々なスキャンダルも間接的ではあるが、彼の体調不調の理由の一つでもあろう。勝正氏は、一族のホープ的存在とともに、総計16人の従兄弟の中の歳長でもあり、従兄弟全員の兄的存在でもあった。彼からは、私は結構辛辣な批判も数多く受けたが、逆にいろいろな場面で励まされもしたことを今でも覚えている。その勝正家では、奥さんの悦子(えつこ)氏と長女の智子(ともこ)氏からも暖かい接待を受け、まだ政治家への未練が残っている勝正氏を励ましながら、ここでもまた島料理の攻勢を受けたのだった。昨日に続きの伊勢海老料理の「エビ汁」は本当に美味い。島では、このように伊勢海老を振る舞うのが最大のもてなしの一つなのだ。宴会は、久々の再会を喜びながらも勝正氏を励ます会の様を呈して来、昔の勝正氏の色恋沙汰などちょっと危険な話題も飛び出すなど、島人特有の大きな笑いの中で、また今夜も夜を更けての時間を過ごしたのだった。もちろん、勝正氏に少し笑顔が戻ったことは言うまでもないことである。彼には、今後は島の戦後の生き字引として彼自身の半生を振り返りながらも、島で起きた一つ一つの事実を記していく「回想録」を書くことを強く勧めたのだが、是非期待したいものである。

西郷南洲謫居跡訪問

帰島三日目は、隣町の龍郷町(たつごう)まで出かける。亡き母の従兄弟筋に当たる方を表敬訪問するためだ。龍郷町は和野集落と中心地名瀬を結ぶ中間に位置するところだが、大島紬発祥の地とともに、西郷南洲が遠島(島流し)された場所としても名高いところだ。親族の訪問を終えた後、明美氏の運転する軽自動車でその地、「西郷南洲謫居跡」を訪れた。この遠島は処罰と言うより、西郷の身を案じた島津斉彬の一計による身隠しの性格が強いものである。詳細は省くが、西郷はこの地でおよそ3年近くを過ごしている。この時、地元愛加那(あいかな)と一緒になり、後の京都市長となる西郷菊次郎と大山巌の弟の嫁となる菊草の二子を設ける。西郷33歳、愛加那23歳の時である。この施設で、愛加那の親戚筋にあたる龍昭一郎氏からいろいろ説明を受ける。住まいは、とても質素なものだった。ここで西郷は何を思い、どう行動したのかといろいろ想像する。先述したが、奄美は反薩摩の精神風土の土地であり、龍郷における西郷の存在の評価も二つに分かれる。西郷否定派によれば、西郷の行動の矛盾の一つは、島民を暴力的に搾取する島役人に対し彼はそれを諌めるのだが、搾取の元となるサトウキビ収奪会社である「大島商社」の設立を積極的に進めた、ということと、愛加那との生活を一方的に打ち切り、その二人の子供を強制的に連れて行った、という二点のようだ。しかし、現在の人権感覚でみれば確かに西郷の行動は疑問点が付くが、当時の価値観や時代感覚からすれば、批判には当たらないのではないだろうか。それよりも、謫居の間に西郷は島の子どもたちや若者に積極的に学問を進めており、龍郷からも優秀な人材が輩出、また地域そのものの精神性も高い。今般の市町村合併に伴い、旧中心地である名瀬市と周辺3町(笠利、大和、住用)が合併、奄美市となったが、龍郷町だけは最後まで住民が合併に反対し、その地域性を守ったことも、ある意味西郷の教えが形として現れたものではないか、と思われる。このように奄美における西郷の評価もその歴史史実を踏まえながら、いろいろな視座で見ていくと案外面白い発見があるように思えるがどうだろうか。

○帰島4日目に炭焼適地発見

さて、旅もいよいよ大詰め、夕刻にはまた帰郷の途に付かねばならぬ帰島4日目は、東京からずっと同行した従兄弟の政文氏の所有する畑を見ることができた。実は、この政文氏は私が従兄弟の中でも最も親しくまた最も深く付き合う人物だ。私より4つ下だから、来年還暦を迎える59歳だが、その行動力と知力は彼の長兄勝正氏をある意味上回るものがある。県下の有数な進学校である高校を自ら中退し、単独で上京、自らの人生を自らの力のみで切り開いていった、まさに孤立無援の士である。私が稚拙な学生運動に走っていた頃、私は母と彼の母から「政文を(運動に)引き込むな!」と強く何度も諌められたものだが、社会への哲学的懐疑と素直な正義感に包まれた彼がマルクス主義に傾倒し、私以上に過激な道を歩んだのは運命でもあったのかもしれない。徒手空拳で養豚・酪農の世界に飛び込み、ヨーロッパやアメリカ、中国・台湾を積極的に訪問、新しい養豚・酪農の世界を作ろうとしたその信念と行動は今でも衰えていない。その政文氏が、新しい養豚の在り方として放牧型を目指し、また奄美の養豚産業の新たな勃興を目指して故郷に戻ったのは今から10年前になるだろうか。しかし、いつも孤高を保つ彼とて、養豚という労働集約型の作業は、一人ではどうしても限界がある。私も一度彼の放牧場を手伝ったことがあるが、とても一人でやれるのものではない。走り回る200頭近くの黒豚を見ながら「すごい!」という簡潔な印象が強く残ったものだ。しかし、体調を少し崩したこともあり、彼はこの事業を自ら引き上げることになる。5年前になるだろうか、彼は放牧事業を引き上げたあと、単身米国ニューヨークへ渡り、地元の和食レストランのチーフシェフとして再スタートを切る。彼の食肉や野菜などの豊富な知識と経験が買われての食品関連コンサルタントからの依頼に応じたものだった。そんな彼にまつわる偉業を振り返りながら、彼とともに彼のかつての養豚放牧場を訪れる。一部は他者へ貸しているのだが、1ha以上はあると思われる農地は少々荒れていた。彼には、再度ここで捲土重来を期す野望があるようだ。今回の帰島は彼にとっては、そのような意味が含まれているのである。彼の夢と目標は、地元産物でもあるタンカン果樹園をベースにした人的交流の場づくりだ。例えば、リタイアした高齢者の新たな夢づくりの場として、或いは、新しい価値観を求める若者の自らを試す場として、それほど高唱でなくても、心身ともに疲れた現代人が少しでもいやされる場として、嘗ての放牧場が活用されるならば、彼にとって彼の人生の新たなステージを作れる。私もまた彼の目標への手伝いを考えながら、「奄美で炭焼は可能か?!」とふと思いつき、彼に話したところ、二つ返事でOKをもらった。早速炭焼窯設置候補の場所を見て回る。そのたびに私もまた自らの目標、或いは夢のような意識が徐々に浮かび上がってくる気がした。2011年の大震災をきっかけに内省へと向かっていた意識が久しぶりに外へのエネルギーに少しだけ転化した感覚があった。

○旅の終わりに

わずか3泊4日の小旅行であったが、いろんなことがあったように思える。初日出発前のロシア人とのハプニングがそれを予感させたが、改めて思い返す。大げさではないが、自らの人生にそれなりのインパクトを与えた時間であったのは事実だ。

大震災、戦争、テロ、殺人、、、、限りない人間の矛盾が渦巻く現実の中で、それでも人は生きていかないとならない。確かに従兄弟氏の孤立無援は誰にでもあてはまる環境だ。そういう意味では人生とは厳しくもありまた寂しいものでもある。それでも、たとえば従姉妹たちとの会話から、また彼女らと一緒に食べた郷土料理から、早朝の珊瑚が死滅したと思われた海辺の白砂から、そしてこの世に私を出してくれた亡き父母との魂の邂逅、結論が出ぬまま逝ってしまった叔父との葛藤、、、、様々な不条理からも一筋の力のようなものを確信したことも事実である。ともすれば、観念に走る性格が強い私には、今回の旅は自らの精神性の再確認でもあったように思える。私は空間的精神性と言ったが、現実的に自らが生きる場を物理的に措定するということではなく、敢えて言えばバガボンドとしての自らの存在の再確認であり、それはまた現実との真摯な向き合いの中でしか生まれてこないという、当然といえば当然の必然的真理でもある。

またいつか島を訪れる日まで、亡き父母へ合掌。。。。

 

平成27年10月25日

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