怠けのすすめ

「働かざる者食うべからず」という言葉があります。私たちもこの言葉にそれほ ど疑問を持つことはないものの、「労働」を権利と言うより義務的に考えている ように思えます。内心は「働きたくないが食うためには仕方がない」というのが 結構本音でしょう。ところで、「労働」には「額に汗をかくことの尊さ」を謳う 東洋的思想やアダムとイブの禁断の実でアダムに下された「罰としてお前は額に 汗してパンを得る」西洋的思想、どちらも労働の価値観は対照的ですが、ちなみ に仏教家のひろさちや氏はこれを、労働神事説(東洋)、労働懲罰説(西洋)と よんでいますが、神事であれ懲罰であれ、どうも「労働することは良いことだ」 或いは「労働からは逃れられない」という固定観念が私たちにはあるようです。 このような価値観からみれば、労働することなく遊んでいる者は当然否定されま す。「怠け者!」と罵倒されます。人間的価値観からみても「ダメなやつ」、と いう評価が下される訳ですね。

さて、このような価値観に真っ向から挑んだとんでもない人がいます。ポール・ ラファルグ(1842-1911)というフランス人がその人です。彼は自らの著書『怠 ける権利』の中でこのように言っています。『労働者は自然の本能に戻り、宗教 家や道徳家がねつ造した、痩せこけた「人間の権利」などより何千倍も高貴で神 聖な「怠ける権利」を宣言しなければならない。1日3時間しか働かず、残りの昼 夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。』と。普通の人が 書いたものであれば、「まっ、そんな考えもあるか」ぐらいですが、実はこのラ ファルグ、かの大思想家カール・マルクスの娘婿(次女ローラ)でもあり、立派 な社会主義者でもあります。マルクスは婿のラファルグのこの考えを無視したよ うですが、ラファルグの友でもあったレーニンは結構考えたらしく、ラファルグ の意図をどのように理解したのか、冒頭の「働かざる者食うべからず」という有 名な言葉を社会主義の実践的戒律であるとしました。こう見ると、資本主義であ れ、社会主義であれ、「労働からは逃れられない」という一種”労働神聖視”と言 う意味では共通しています。日本(だけでなく)で今問題になっている雇用の問 題もこのような「労働正当論」や「労働神聖論」などを背景に非人間的な労働時 間増加が堂々と行われていますが、今一度「労働する」意味をその根源的なとこ ろから考えてみたいものです。

「労働」の問題は結局は「人間とは何か」という根源的問題にならざるを得ず、 それは「自由と抑圧」という人間社会の普遍的課題を避けて通れないものです が、コメントの冒頭でも書いた「労働は嫌だな」という正直な感覚を頭から否定 せずに「怠けたい」という気持ちを素直に認めるように努めたいものです。 ラファルグが言うように労働も一日3時間くらいであればもっと素晴らしい創造 的な生活が出来そうな気がしませんか!

 

 

≪DAIGOエコロジー村通信9月号より≫

 

<補論>

 

「労働」の上記のような根本的な問題について研究された文献はあまり見受けられません。。いわゆる「労働神聖論」は近代以降、全ての前提条件となっており、マルクスも「労働(働くこと)は当然」ということから出発、その労働が「(資本によって)疎外されている」という論理を構築しました。しかし、「労働は当たり前」という発想はそれほど古いものでもなく、近世以降の価値観となったもので、故今村仁司氏はその「労働論」の中で、「……労働と労働観の変革は二つの目的をもつ。第一に,搾取からの解放。第二に,労働 が非労働に成ること,すなわち,美的・遊戯的にして理性的な活動になること」(「現代思想を読む事典」1988年)と述べていますが、その考えの元には、アダム・スミスヘーゲル、カント、そしてマルクスに至る「生産概念」をゆるぎない人間の物質的条件の基礎としておく(を絶対視する)思考があり、それはハンナ・アーレントの言う「(近代における)労働社会の誕生」としての「新しい隷属社会」(シモーヌ・ヴェイユ)ということです。アーレントは人間の活動を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」と分け、人間の人間としての所以を「労働からの解放」を経て「仕事」そして「活動」の領域へ移行させるべきだと言っていますが、今村仁司氏の『近代の労働観』(岩波新書)はそのあたりを分かりやすく論じています。いずれにせよ、我々が「労働神聖視」を絶対視する限り労働の呪縛とその隷属から逃れられない、ということなのでしょう。