『政治における嘘』

標題の『政治における嘘』はハンナ・アーレントの論文の一つの題名である。アーレントは、ベトナム戦争含む対インドシナ戦争に対する当時のマクナマラ国防長官が議会にも秘密裡に作成したレポートの欺瞞性から政治一般における「嘘」の本質について述べている。端的に言えば、「政治(権力)は嘘をつく」という古代からの格率を具体的な例を挙げて説明しているのだが、そのような観点からここ一両日巷を賑わせている『安倍談話』をめぐる評価の攻防を見ていると、談話肯定派、否定派両方とも前述の格率を忘れたかのように、談話の文言の表層的解釈に終始しているように思える。肯定派は、心理的な動機からも内容の吟味を深めることなく談話への無原則な同調が見られ、一方否定派は、文言上使用された「侵略」「反省」「お詫び」当の語彙を文脈上の矛盾という文法の授業のような批判の域を出ていない。

そもそも嘘というものは、日常的に人間である限りどこかで突いているものだが、これを意図的且つ組織的に、しかも公的存在が実行するとなるとその影響は計り知れないものとなる。一つの嘘は次の嘘を必ず誘発することになり、また嘘をつかねばならぬ動機の背後には必ず隠したい真実が横たわっている。隠したいことは普通あまり触れたくないのが人情だ。そう考えれば、談話で述べられなかったコト、或いはスルーされたことこそ、嘘をつかねばならぬ背後にある真実と言える。それを隠すためには、かなりの修飾語が必要だったのだろう。そのような観点から今回の談話を見れば、大量に書かれた文字数の意味も浮かび上がってくるように思える。しかも、相当な知恵ワルが書いたと思われるが、単に真実を隠すことだけが目的ではなく、談話批判を逆利用出来るような仕組みも組み込まれているようだ。

政治(権力)は民主主義と言われるようになってから「言論の府」と呼ばれるようになり、言葉のやり取りの応酬でモノゴトを決めるようになった。もちろん言葉の担保として行為(政治的行為としての政策実行)との対比の中で、政治(権力)の評価が行われるのであるが、そこにもいわゆる「法解釈」という嘘を作り出す仕組みが存在する。一般に行政法は解釈法であり、抽象的な法の表現に具体性を与える権力を保持しているのが「官僚」である。彼らの胸先三寸で法は執行されるのである。これに官民挙げての広報というプロパガンダが加われば嘘も真実(っぽく)になるし、異議申し立ても少数派として消されていくのである。そういう意味では、与党の嘘と野党の嘘では比較にならないほど、その影響は大きいだろう。憲法改正論議でなく、法解釈論議にすり替えたところに、安倍政権の積極的嘘吐主義が伺えるのである。

真実は観念の中ではなく、事実の中にこそ存在するものである以上、嘘をつくものが事実から目をそらしたくなるのはこれまた人情だろう。そのような安倍政権談話が執拗に歴史(事実)がまだ存在し得ない「未来」志向という言説を吐くこともそのように考えれば納得いく話ではないか。

冒述のアーレントは、標題の論文の中で、非常に示唆的なことを述べている。

 

曰く「・・・自分の未来を支配することが出来ると感じるところまで行動する人間は、過去をも支配したいという誘惑にいつでも駆られるものである・・・・」

また、彼女はこうも言っている。

「・・・政治の半分は「イメージづくり」で、残り半分はそのイメージを信じ込ませる技である・・・」