フェミニズムについて

フェミニズムについては学生時代のリブ活動家の女性との議論を思い出す。当時、上村一夫の『同棲時代』という漫画も流行っており、男と女の関係については、その歴史的、政治的、社会的視点からの議論はそれなりに楽しいものであった。当方も男ばかりの議論では殺伐としており(笑)、女性を交えた議論となると結構楽しいというような主旨を吐いたところ、「そこが男の根本的問題ではないか!私たちはホステスじゃない」という反論があり、それに対して「君らは、同性としてのホステス業を非難するというのは逆差別ではないのか!」などという青っぽい議論が延々続きながら、平行線をたどりながらもそれなりに楽しい酒を飲んだものだ。まだ社会経験も少なく頭でっかちの薄っぺらな学生議論であったが、それでも議論が分かれたのは「労働者の解放無くして女性の解放はあり得ない」という性差の根底にある”人間”をベースにした考えが基本だと当方は思っていたのだが、先方は逆で「女性の解放無くして労働者の解放はあり得ない」というものであった。人生経験を経ての居酒屋議論になれば、「どっちも大事」で御手打ちになるのかもしれないが、当時の政治闘争場面では、このような論理矛盾は乗り越えないといけない基本テーゼになる。そのような学生時代の熱き議論にも関わらず、現実的には「普通の」と言う表現しか使えないが、その後の人生はそれなりの恋愛をし結婚し、子をもうけ、孫もいる存在となった今、やはり前述の基本テーゼはずっと頭の片隅に残っていたのかもしれないが、先日、上野千鶴子の『家父長制と資本制-マルクス主義フェミニズムの地平-』を手にして、「目からうろこ」の思いにかられた。上野氏は知る人ぞ知るフェミニズムの大御所だが、彼女の思想の理論と分析は実にするどく、このような本が30年近い前に書かれたことは、上野氏の秀でた資質を評価せずにはいられない。上野氏に限らず、「女性論」を女性の立場から展開している識者は実は19世紀の女性解放時代初期より世界中に数多くいることも、恥ずかしながら彼女の本の中で知った。しかし、にも関わらず、上野氏の論に欠けているものとして、性差を社会的に捉える視点と同時に、やはり「なぜ男と女がいるのか」、キリスト的に言えば「なぜ神は男(アダム)と女(エバ)を作り給うたか」という根本命題であると思える。上野氏も当書の中で触れているフランス啓蒙主義の雄、J.J.ルソーは自然という認識から男と女の在り方について、特にその著『エミール』のなかで展開しているが、その中でソフィという女性を登場させながら、「男による女の支配」「女による男の支配」を実に明確に述べている。私は、彼の『エミール』を読みながら、60数年の人生の中でずっと疑問だった「男と女のあるべき関係の姿」が納得できる気がするのだが、ルソーはフェミニストから見ればまさに「差別主義者」であり「打倒の対象」でもある。フェミニズムに言わせると、「それが男の発想だ!」ということになり、結局は議論は循環論に陥るしかない。とはいえ、まさに根本命題である以上、それは仏陀であれ、孔子であれ、キリストであれ、ソクラテスであれ、だれも”本当の正解”は出せないだろう。随分昔、野坂昭如のヒット曲「黒の舟歌」の一節、「男と女の間には深くて暗い川がある・・・・」は今でも現実的に感じる(笑)フレーズであるが、もしかしたらこの根本命題の答えは高尚な形而上の世界から見るのではなく、日常の中の「男と女の泣き笑い」の中から見出すべきものかもしれない。野坂の一節に従い、「誰も渡れぬ川だけどエンヤコラ今夜も船を出」しながら答えを見つけることにしよう。

<補論>

あの時代のリブの戦闘的女性も今や60代、70代となっているが、もし機会があれば学生時代と同じような議論をしてみたいものだ。風雪の人生の中で、お互いに何を学び、何を培い、何を得て、そして何を失ったか、を語り合えれば今の時代の根にあるものも少しは見えてくるかもしれない。