人体は通過点

「人の一生は短い、宇宙の歴史にくらぶればその存在は瞬間的なものである。」という話は良く聞きます。これと同じように私たちの人体そのものも、もしかしたら単なる通過点に過ぎないのかもしれません。インプット(入力)とアウトプット(出力)という概念は情報理論から出てきたものですが、人体も大きな情報処理機器と考えれば、人体へのインプット(入力)とアウトプット(出力)のイメージが少なくとも体験的には理解できるでしょう。例えば、毎日食べる食事はインプット(入力)であり、それが消化(情報処理)され、最後に便というアウトプット(出力)として出てきます。体全身を使う運動(入力)をすれば汗(出力)が出てきます。また嫌な話を聞かされれば(入力)、気持ちが沈みます(出力)。その逆もあるでしょう。このように、外からの刺激を体が受け、その刺激が体内で消化(処理)され、それが体外の現象となって現れる訳ですが、細かいことはさておいて、人体をこのようにある情報の通過点というように認識することは、人間が自分自身に対して保持している「所有物(私自身は私自身のモノ)」としての観念も覆してくれるのではないか、と思われます。また、もしすべての人間存在が「通過点」としてあると仮定すれば、通過点を後生大事に持ち続けることの意味が少し変わって来るような気がします。例えば、病気という概念も通過点における滞りという見方が出来るでしょう。体に出来た異物は異物ではなく”滞り”と言う現象であり、心の悩みもまた”滞り”と言えます。であれば”滞り”ですから、滞らないようにすればよい。すなわちいつも流れていれば滞りはありません。ではなぜ、滞るのか!私の答えは、それは「所有するから」です。言葉を変えれば「拘るから」です。精神も含めた人体をこのように通過点として認識すれば、「所有」或いは「拘る」ことの無意味さが少しは見えてくるのではないか。もう一つ大事なことは、人体(精神含む)にはもともと復元力(医学的には免疫力或いはホメオパシー)があるということを忘れてはならないでしょう。その復元力を素直に引き出せるような生活こそが悩める現代人に必要なものではないか。

そのような生活のヒントになる先人の教えを最後に挙げます。

・『ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず』(鴨長明

・『上善如水(上善は水の如し)』(老子

・『諸行無常』(仏陀

・『人生は短い。たとえ、それを長いと思って過ごしている人たちにとっても。』(アンドレ・モーロア)

・『この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、自分の生きたいように生きるほうがいい。』(山本周五郎

・『私の人生というこの長い疾病』(アレキサンダー・ポープ)

・・・・・・・・・・・・

まだまだありそうですがこれくらいで。

 

<DAIGOエコロジー村通信7月号より転載>