美智子皇后と養蚕と女性

美智子皇后が特別に養蚕に対する意識が高いことは各種皇室関連報道からも結構知られている。背景の説明には、奈良時代より伝わる純日本産蚕の品種である「小石丸」の生産の絶滅を危惧したことと、昭憲皇太后明治天皇妃)貞明皇后大正天皇妃)、香淳皇后昭和天皇妃)と明治以降三代に渡る天皇家妃の公務でもあり、それを引き継ぐ立場を守っているものである、という説明が一般的だ。それはそれで間違ってはいない。ただ、天皇妃の養蚕は明治以降から始まったものでなく、「日本書紀」の雄略天皇或いは継体天皇によれば、「天皇、后妃をして、親ら桑にかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」とあり、また古代・中世における年貢として「桑」は重要なものであり、律令制においては各戸に対する納税義務として桑の植樹と「桑代(クワシロ)」(年貢賦課)は日本全国各地に及んでいる。このことから、養蚕そのものが天皇家に限られた公務というものではなく、庶民一般の日常生活の中でも行われてきた仕事であり、特にこの「養蚕」を女性が担ってきたという事実は、鎌倉以降、江戸時代、そして明治以降と綿々とつながっているのは各種史料で明らかである。イメージとしては農業の合間に行われるのが養蚕(農間稼ぎ)という捉え方をしがちであるが、事実は女性自身が主体となって養蚕、製糸、機織りを行いみずからそれを売り歩いていたことが史実としてある。(『伊勢物語』『一遍聖絵』)天皇家における養蚕は鎌倉以降の武家の台頭による質素倹約政治もあり江戸時代まで行われていなかったが、これを明治天皇妃でもあった昭憲皇太后が復活し、美智子皇后までの養蚕が続いているのは前述のとおりである。さて、ここまでの話はある意味、事実ではあるが、表層的な説明と思われる。ここからは私の想像でしかないが、昭憲皇太后貞明皇后美智子皇后にとっては皇后としての在り方とともに新しい時代における女性の生き方についても大きな影響を与えていると思われる。昭憲皇太后日本赤十字社の発展に寄与、また津田梅子らの新進の女子に対する支援も行っている。同様に、貞明皇后キリスト教の一つで平和主義・平等主義のクエーカー教に傾倒、ハンセン氏病や日本最初の知的障害児者のための施設である滝野川学園への大きな支援を行っている。別の見方をすれば、明治以降の「脱亜入欧」路線の天皇家としての先取りとも言えるが、維新が江戸時代までの日本人の意識を変えたのは武士、庶民に限らず天皇家まで含め、全日本人に及んだものであり、維新政府の意図は別として、様々な階級における世界への価値観の開眼があったのは間違いはなく、皇室における女性の見方にも同じことが言えよう。このような影響をうけた昭憲皇太后貞明皇后から美智子皇后が何を受け継ぎ、そして太平洋戦争敗北という大きなメルクマールからあらたな女性の在り方、生き方を模索していることは間違いないと思われる。平民階級としての美智子妃の皇室入りにあたってはさまざまな障害と各種の圧力もあったと推測されるが、肩書の美智子“妃”ではなく、「正田美智子」という一人の女性、人間としての意識の中に立ち入れば、新しい時代にふさわしい女性の生き方について彼女が思慮しているのは想像に難くなく、それは孫である敬宮(愛子)、眞子、佳子に対する接し方からうかがえるものである。美智子皇后の発言は非常に示唆に富み、奥深いものがあり、言葉を表面だけでみるとなかなか見えないものがある。ここに今から3年前の2012年3月に美智子皇后から眞子内親王へ出した手紙が公開されている。これは学習院初等科3年の眞子内親王が学校から出された宿題「お年寄りの世代が行っていた手仕事について調べよう」について美智子皇后が答えたものである。長いが全文引用する。

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眞子ちゃんへ

 眞子ちゃんは、ばあばがお蚕さんの仕事をする時、よくいっしょに紅葉山のご養蚕所にいきましたね。今はばあばが養蚕のお仕事をしていますが、このお仕事は、眞子ちゃんのおじじ様のひいおばば様の昭憲皇太后様、おばば様の貞明皇后様、そしてお母様で いらっしゃる香淳皇后様と、明治、大正、昭和という三つの時代をとおってばあばにつたえられたお仕事です。

 眞子ちゃんは紅葉山で見たいろいろの道具を覚えているかしら。棚の中の竹であんだ平たい飼育かごをひとつずつ取り出して、その中にいるたくさんの蚕に桑の葉をやりましたね。蚕が大きくなって、桑をたくさん食べるようになって桑をたくさん食べるようになってからは、二階にあるもっと深い、大きな木の枠のようなものの中に移して、こんどは葉のいっぱいついた太い桑のえだを、そのまま蚕の上においてやしないましたね。しばらくすると、見えない下のほうから蚕が葉を食べるよい音が聞こえてきたのをおぼえているでしょう。耳をすませないと聞こえないくらいの小さい音ですが、ばあばは蚕が桑の葉を食べる音がとてもすきです。

 蚕はどうしてか一匹、二匹とはいわず、馬をかぞえるように一頭、二頭と数えることを眞子ちゃんはごぞんじでしたか? あのとき、眞子ちゃんといっしょに給桑をした二かいの部屋には、たしか十二万頭ほどの蚕がいたはずです。眞子ちゃんはもう、万という数字を習いましたか? 少しけんとうのつかない大きな数ですが、たくさんたくさんの蚕があそこにいて、その一つ一つが白や黄色の美しいまゆを作ります。

 きょねんとおととしは眞子ちゃんも自分で飼ったので、蚕が何日かごとに皮をぬいだり、眠ったりしながらだんだん大きくなり、四回目ぐらいの眠りのあと、口から糸を出して自分の体のまわりにまゆを作っていくところを見たでしょう。きょねんはご養蚕所の主任さんが、眞子ちゃんのためにボール紙で小さなまぶしを作って下さったので、蚕が糸をはきはじめたら、すぐにそのまぶしに入れましたね。

 蚕は時が来るとどこででもまゆになりますが、まぶしの中だと安心して、良い形のしっかりとしたまゆを作るようです。まぶしには、いろいろな種類があり、山をならべたような形の、わらやプラスチックのまぶしの中にできたまゆは手でとりだしますが、眞子ちゃんが作っていただいたような回転まぶしの中のまゆは、わくの上において、木でできたくしのような形の道具で上からおして出すのでしたね。さくねんは、ひいおばば様のお喪中で蚕さんのお仕事が一緒にできませんでしたが、おととし眞子ちゃんはこのまゆかきの仕事をずいぶん長い時間てつだって下さり、ばあばは眞子ちゃんはたいそうはたらき者だと思いました。サクッサクッと一回ごとによい音がして、だんだん仕事がリズムにのってきて…また、今年もできましたらお母様と佳子ちゃんとおてつだいにいらして下さい。

 蚕は、始めから今のようであったのではなく、長い長い間に、人がすこしずつ、よい糸がとれるような虫を作り上げてきたものです。まゆのそせんは自然の中に生きており、まゆももっとザクザクとした目のあらいものだったでしょう。間は生き物を作ることはできませんが、野生のものを少しずつ人間の生活の役に立つように変えるくふうをずっと続けてきたのです。野原に住んでいた野生の鳥から、人間が鶏をつくったお話も、きっとそのうちにお父様がしてくださると思います。

 蚕の始まりを教えてくれる「おしらさま」のお話を眞子ちゃんは、もう読んだかしら。ばあばは蚕のことでいつか眞子ちゃんにお見せしたいなと思っている本があります。

 女の方がご自分のことを書いている本で、その中に、四年生くらいのころ、おばあ様の養蚕のお手伝いをしていた時のお話がでてきます。まだ字などが少しむづかしいので、中学生くらいになったらお見せいたしましょう。

 この間、昔のことや家で使っている古い道具についてお話してとおたのまれしていましたのに、暮れとお小学にゆっくりとお会いすることができませんでしたので、思いついたことを書いてお届けいたします。今は蚕さんはおりませんが、もう一度場所や道具をごらんいなるようでしたら、どうぞいらっしゃいませ。たいそう寒いので、スキーに行く時のように温かにしていらっしゃい。

           ごきげんよう

                            ばあば

眞子様

 

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眞子内親王にあてた手紙の中にはそれなりに深い意味があるように思える。太字アンダーラインは私がそのように感じた部分である。ここではそれについて一つ一つその意図を説明することは省くが、美智子皇后の発言の中に含まれる彼女の真意と意図というものを考える大きな材料の一つではある。

しかし、最近は「五日市憲法」発言、「戦争犯罪人」発言など比喩ではなく直接的発言がみられるのは、美智子妃自身の今の日本社会の危うさに対する危惧の表れとも思えるが、これからも美智子皇后の発言については注目したい。

 

<補足>

女性と蚕そして女性の地位について網野善彦氏の『女性の社会的地位再考』は本項をもっと深く知るためにも読んでみたい論考である。

http://honto.jp/netstore/pd-book_01700572.html