「安倍晋三語録ナショナリズム」批判 ~著書「美しい国へ」語録から~

その①【移民チームでW杯に優勝したフランス】

安倍晋三氏曰く≫『スポーツに託して、自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する・・・<中略>・・・フランスは、第二次世界大戦のあと、労働力が不足して大量の移民を受け入れた。だがその後ナショナリズムの高まりとともに、移民排斥の嵐が吹き荒れた。98年、強豪フランスは、開催国としてW杯に出場するが、このときメンバーの多くが、アルジェリア系のジダンをはじめとする移民と移民二世の選手たちで占められたため、「レインボー(いろいろな人種からなる)チーム」と呼ばれた。しかし、そのチームが優勝を勝ち取ったとき、かれらはもはや移民ではなく、フランス国家の英雄であった

優勝の夜、人びとは国家「ラ・マルセイエーズ」を歌って熱狂し、百万人以上がつどった凱旋門には「メルシー・レ・ブリュ」(「ブリュ」はフランスチームのシンボルカラーの青)の電光文字が浮かび上がった。サッカーのもたらしたナショナリズムが、移民にたいする反感を乗り越えた瞬間であった。』

 

→≪批判≫混成チームが出来上がった時には越えられなかった人種の壁を「勝利」という要素で越えたということか。では負けていたらどうなったのか。「やはり他の人種がいたから負けたのだ」となったのではないか。また異人種メンバー自身のアイデンティティは果たしてすべて「フランス人」という意識があったのか。そもそもスポーツとナショナリズムを「政治家」が持ち出すこと自体に問題がある。極論或いは過去の問題と言われるかもしれないが、ナチスドイツのスポーツに対する認識は、『国家社会主義は、たとえ生活の一部だろうと、国という総体的な組織の外におくことをゆるさない・・・・・すべての競技選手、スポーツマンは国家に仕え、水準の高い国家社会主義者の身体をつくりあげるため貢献しなければならない・・・・・あらゆるスポーツ団体は、党組織あるいはドイツ労働戦線の指示を受けるべきである・・・・・競技選手、スポーツマンは、国家への奉仕における政治的な原動力の予備課程なのである。』だ。ともかくも政治家がスポーツを口にする時は不純な動機でしかない。

 

その②【「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国家】

安倍晋三氏曰く≫『「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。』

 

→≪批判≫「天皇陛下万歳!」などと言って国民総動員して挙句の果て原爆落されたあの戦争を「ほんの一時期」という認識しかもっていないことが明らかだ。彼は、平成25年の終戦記念日でこう述べている。『いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。』(平成二十五年八月十五日内閣総理大臣  安倍晋三)片時も忘れないと言いながら、それは「ほんの一時期」だという。言葉のニュアンスではなく言葉を発する動機が矛盾している。また、天皇制が我が国において“歴史的に長大なタペストリー”であるかどうかは、実は歴史学的見地から見れば疑問があるところである。権力構造ではなく民衆レベルで天皇制が根付いたのはおよそ900年前の12世紀頃と言われている。たかだかそんな時間幅である。また「君が代」を国家としたのは『1869年(明治2)ころ,横浜にいたイギリス軍楽隊長J.W.フェントンが国歌の必要を説き,薩摩藩砲兵隊長大山弥助(のちの元帥陸軍大将大山巌)が薩摩琵琶歌《蓬萊山(ほうらいさん)》に入っていた《君が代》を歌詞として選定,フェントンがこれに作曲。』(世界大百科事典第2版)でありたかだか明治以降の付け焼刃の産物である。

 

その③【「地球市民」は信用できるか】

安倍晋三氏曰く≫『では、自分たちが生まれ育った郷土にたいするそうした素朴な愛着は、どこから生まれるのだろうか。すこし考えると、そうした感情とは、郷土が帰属している国の歴史や伝統、そして文化に接触しながらはぐくまれてきたことがわかる。とすれば、自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは、だれがなんといおうと、本来、ごく自然の感情なのである。』

 

→≪批判≫生まれ育った郷土に対する素朴な愛着とは、国とかそういうものではなくもっと人間的なものではないか。肉親の親愛は国家とか伝統などという社会的2次的構成概念ではないだろう。ふるさとの山、川は国家とは関係ないのである。文字通り安倍晋三が言う「素朴」な感覚とはそのようなものではないか。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」なのである。自らが帰属する場所とは自ら自身でしかない。その自らをはぐくむのは国家などという人為的概念ではなく文字通り“自然”そのものでしかないだろう。郷土愛を国家愛へ結びつけるレトリックである

 

その④【「地球市民」は信用できるか】

安倍晋三氏曰く≫『はじめて出会う外国人に、「あなたはどちらから来ましたか」と聞かれて、「わたしは地球市民です」と答えて信用されるだろうか。「自由人です」と答えて、会話がはずむだろうか。かれらは、その人間の正体、つまり帰属する国を聞いているのであり、もっといえば、その人間の背負っている歴史と伝統と文化について尋ねているのである。』

 

→≪批判≫この言葉の前には少し長いがこのような言葉がある。

『外国にすんでいたり、少し長く旅行したことのある人ならわかるだろうが、ただ外国語がうまいというだけでは、外国人は、深く打ち解けたり、心を開いてくれることはしないものだ。伝統のある国ならなおさらである。心の底から、かれらとコミュニケーションをとろうと思ったら、自分のアイデンティティをまず確認しておかなければならない。なぜなら、かれらは《あなたの大切にしている文化とはなにか》《あなたが誇りに思うことは何か》《あなたは何に帰属していて、何者なのか》――そうした問いをつぎつぎに投げかけてくるはずだからだ。かれらは、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである。』

私は海外旅行の経験も少なければ、外国人の友人も数えるほどしかいない。しかし、旅行の経験がなかろうと、友人がなかろうと、どこの国であろうと、深く打ち解け、心を開くことは国家を超えた個人としての存在ではないか。「国家という衣服をまとわないと信用されない」という発想は一体どこからでて来るのか。先述のナチスにおけるスポーツ認識と相通ずるものであることをはからずも露呈している。東京オリンピック開催に向けて「おもてなし」という言葉の意味を滝川クリステルは次のように言った。「おもてなし。それは訪れる人を心から慈しみお迎えするという深い意味があります。先祖代々受け継がれてまいりました。」日本人が外国人に対して心を開くときには必ず相手の国家帰属を問題とするのであれば、このような「おもてなし」は果たして存在するのか。「訪れる人を心から慈しむ」気持ちは国家という概念から生まれるのではなく、人間が本来持っている隣人愛ではないのか。なぜ「地球市民」「自由人」と応えて信用されず話がはずまない、と断言できるのか。「地球市民」とは元首相鳩山由紀夫の言葉であったが、一般的に解釈すれば「世界共通市民」という意味であろう。政敵の言葉であったから反応したのか。ちなみに独立行政法人国際交流基金には「国際交流基金地球市民賞」と言うものがある。また安倍晋三氏自身が国際交流基金において彼の政策である「青少年交流事業」を行っており、また彼の父親であった安倍晋太郎氏提唱の「安倍フェローシップ・プログラム」事業を設置している。まさに安倍親子が活躍する世界交流基金で「地球市民」という言葉は使われているのである。

 

その⑤【曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷】

安倍晋三氏曰く≫『ここでいう国とは統治機構としてのそれではない悠久の歴史をもった日本という土地柄である。そこにはわたしたちの慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということは、自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである。』

 

→≪批判≫みずから「国とは統治機構ではない」と言いながら、彼は「国を守る」という行為を統治機構としての国家の長として行おうとしているのである。慣れ親しんだ自然を守ることと「国を守る」ことを同列視しながら、片方は「統治機構ではない」と言いながら片方で「統治機構」としてそれを行おうとすることの説明をどうするのだろうか。

 

その⑥【「偏狭なナショナリズム」という批判】

安倍晋三氏曰く≫『日本人が日本の国旗、日の丸を掲げるのは、けっして偏狭なナショナリズムなどではない。偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか。』

 

→≪批判≫これについては逸話を一つあげたい。時は1987年に起きた「東芝機械ココム違反事件」は当時の東芝ソ連に潜水艦技術を売ったということで、米国では日本の国旗や日本車をハンマーでたたき割るという行為があったにも関わらず、日本政府はこの行為を批判することなく米国に対して謝るのみだった。果たして安倍晋三氏は米国で日の丸が焼かれる事件が起きたら行動を起こすのであろうか。これについては、日本では外国の国旗を焼くと犯罪である。「刑法92条外国国章損壊罪」というものがあるが、2011年に自民党が日本国旗(日の丸)を焼くと罪になるという法案(「国旗損壊罪」)を提出しようとしたことがある。自国の国旗を焼くことについて罪を問うのはあのアメリカでさえも「憲法違反」という判断がされている。結局、国旗を掲げることも焼くことも表裏一体であり、そもそもナショナリズムに偏狭とか排他とか区別すること自体が問題である。「寛大なナショナリズム」などというものは基本的にあり得ない。安倍晋三氏がどのように区別形容しようともナショナリズムとはすべて偏狭であり排他であるのである。

 

 

<補記>

ナショナリズム」については根本的議論を進めないと安倍晋三氏のような個人的価値観と公共的価値観の区別がつかなくなり、情動的な発想が国家権力機構という装置を通して論理化されていく。これは右翼、左翼に関わらず「支配層が“まとめる”」と言う発想からでて来るものである。しかし、では「公共的価値観」というものが果たしてあるのか、という疑問が残る。『祖国のために死ぬということ:ナショナリズム考』という小論文で慶応大学の萩原能久氏は冒頭に面白い縦話をしているが、なかなか深い命題である。

 

・・・・・以下抜粋・・・・・・

「究極の選択:愛する者のために死ぬ?

 「あなた、本当に私のことを愛しているのだったら、私のために死ねる?」無邪気なようで世の中でこんなに恐ろしい質問があるだろうか。「できない」と答えたら愛していないと認めたことになるし、「うん、死ねるよ」と答えれば、「それじゃ、今ここで死んでみて」という究極の選択をも飲まなくてはならない。修羅場を恐れない限り、まさに迷惑な異性から求愛された場合の断り方としては切り札的なセリフである。

 あなたは愛する者のために死ねるだろうか?わが子や肉親の場合に「私は死ねる」という人でも、「祖国」のためにと聞かれれば、二の足を踏むのが普通だと思う。戦闘的右翼ならば、戦後民主主義のぬるま湯的教育が日本人を骨抜きにしたと怒るところかもしれないが、これを「民主主義」のせいにするのは的外れである。」(慶應義塾大學法學部教授 萩原能久氏)

 

「愛する人のためには死ねるがなぜ国の為に死ぬことができないか」、当然である。しかし、このような個人の人間としての気持ちを祖国とか国とかという価値観に巧妙にすり替えるレトリックを安倍晋三氏の語録からは見出すことが出来るのである。