産学協同(共同)

1960年~70年にかけての学生運動華やかなりし頃、「産学協同路線」は資本主義 の手先の理論であり”粉砕”すべき理念であったことは、当時を知る方々はご存じ のことでしょう。この考えの一つには「学問の”純粋性”」を「企業活動の”不純 性”」から守らないといけない、という当時のドグマ(教義)がありましたが、 学生時代にこのようなスローガンを掲げながら、いざ卒業すると「企業戦士」と してその最先端で活躍するという、誠に矛盾した行動にもかかわらずほとんどの 学生は宗旨替えしたようにサラリーマン組織という資本主義体制に組み込まれて いきました。

さて、時が移り、「産学協同(路線)」は、国家をあげて産業界と 教育界の”連携”を謳うようになりました。大きな転換は、2008年の中教審答申の 「学士課程教育の構築に向けて」です。そこでは、「グローバル化する知識基盤 社会において,学士レベルの資質能力を備える人材養成は重要な課題」と規定し たうえで、「目先の学生確保が優先される傾向がある中,大学や学位の水準が曖 昧になり、学位の国際的通用性が失われる」傾向もあるとし、「大学及び大学を 構成する関係者は、社会の変革を担う人材の育成、「知の拠点」として世界的な 研究成果やイノベーションの創出など重大な責務を有しているとの認識の下に、 国民や社会の期待に応える大学改革を主体的に実行することが求められてい る。」として、産学協同によるグローバル人材・イノベーション人材の育成推進 などソフト・ハード両面にわたる抜本的な改革案を提示しました。しかも、「改 革」を実行に移す大学には予算を重点的に配分する、という”信賞必罰”的答申で した。

このような流れを受けて、昨年、文科省の「第1回実践的な職業教育を行 う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」で、経営コンサルタントの 富山和彦氏が大学をG型L型に区分して、ごく一部の「トップ大学」以外はすべて 「職業訓練校化」すべきという提案をして議論を呼んだのは記憶に新しいところ ですが、中教審答申の隠された意図を明確にしたという意味では特筆すべき議論 の投げかけでした。

このような議論を正当化する論調に、「大学(学問)の独立 はそれなりに守らないといけないが、学問と言えど社会生活と切り離して存在で きる訳ではない。社会に役立つことが学問の在り方ではないのか。」という意見 です。

さて、話が少し鷹揚になってきましたが、産学協同の流れを過去にさかのぼって から見ると、60年、70年代の「反産学協同」には稚拙・単純な面はありながら も、学生の「社会に生きる一人の人間」としての主体性が感じられます。(とは いえ、前述したとおり宗旨替えして企業戦士となって行く訳ですが(笑))ところ が、現在の産学協同推進を見ていると、そこに「学生の主体性」の不在を感じざ るを得ません。こういうと現役の学生や世代の若い方々から反論が来そうです が、残念ながら学生だけの責任ではありませんが、時流への迎合が今の社会の病巣でもあるのは否定できません。

大学進学率が増加していく中で、「量が質を駆 逐する」という見方もできない訳ではありませんが、「なぜ学ぶのか!」という 基本原点から、またそういう意味では、先述の「社会に役立つ」というフレーズ ももう一歩掘り下げ、「社会とは一体何か」「役立つとは一体何が何に対してど のように役立つというのか。」という疑問を呈すことから「産学協同」を見直す 必要もあるのではないでしょうか。

できれば、現役の学生諸君にそこを考えて欲 しいし、また学生を子に持つ親の世代も自らのこととして考えて欲しいと思うも のです。

 

<補足>

①富山和彦氏の論議は、現在の大学教育に求める”ある一つの価値観”の立場とし て非常に分かりやすいものです。 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

 

②大学の在り方を学生と教員が対等に議論しあおうというユニークな取り組みを 行っているのが大阪大学の「パンキョー革命」です。(※「パンキョー」とは一 般教養の略) http://www.celas.osaka-u.ac.jp/ourwork/pankyo