復興とはなにか

・3.11から4年目を迎える。現実は持続しているが、メディアでは「節目」という言葉で状況の断片化を図っている。

・私自身はいまだに3.11に対して向き合えていない。多くの人から、「一度現地へ行け」といわれた。

・確かにボランティアで現地へ行き、なにがしかの手伝いをすることも復興の手助けであり、被災者も瞬間的には救われるのかもしれない

・しかし、そうすることで自分の中にある何かが「満足」してしまい、本当の問題から意識をそらされそうな気がする。

・それは被災者と私自身の差異かもしれない。当事者と非当事者という差異だ。その差異は果たして埋められるものなのだろうか。

被災者が求めているものは一体なんだろうか。

・それは物理的にも時間的にも不可能な原状回復でもなければ、まやかしを含んでいる「未来」でもないような気がする。

・ただこのように問題を単純化できるほど被災地の方々の情報について多くを知っている訳ではないので、少しでも被災者の求めるモノに対して応えることの必要はあるだろう。

・それでも、敢えて言えば、被災者自身も「本当に必要なモノ」について迷いがあるのではないか。

・そこに見えてくるのは、もっと人間の心の奥深い所にある“何か”ではないだろうか。

被災地の構図は複雑だ。自然災害と人間の原罪とも言える原発災害が突き付けたものが、震災後のこの4年間に様々な人間事象として表出してきた。

・そこに共通するものは「人間」というものの欺瞞、強欲、両舌、、、が、はしたなくも堂々と自己主張する世界にほかならない。

石牟礼道子は『弱い人を人柱にして物理的に強いものだけが生き残る世の中になるのか!』と問いかける。そしてこうも言う。

『未来はあるかどうかはわからないけれども、希望ならばある。文明の解体と創世期が、いま生まれつつある瞬間ではないか。』と。

・「人間がなぜ生きているのか」を根源的に問わなければならないとしみじみ思う。