内省の時代

「世も末」と言う言葉が最も似合う時代の様相を示して来ている。3.11を境に社会の様々な矛盾が矛盾としてではなくまさに実相として表出してきた。人々は訳のわからない状況に投げ込まれる中で自らを取り戻そうとしてある者は必死に抵抗を試みある者は社会に背を向けまたある者は得体の知れぬ祝祭が日常と化している。わかっていることは誰しもが「不安」を抱いていることだ。天皇家らホームレスに至るまであらゆる階層、人間が誰しも同じ心理にあるように思える。文字通りの「平安」がおよそ400年も続いた「平安時代」末期は天変地異の中政治の腐敗は言うに及ばずまた宗教界も例外でなく社会は貧困疫病強盗殺人などが横行した。(※具体的なことは「大鏡」を始め4鏡と言われる書物に書いてある)これを人々は「末法の世」とおびえ苦しんだ。まさに今の時代と瓜二つな現象である。終末論は洋の東西を問わず人間が生きている限りどこでも散見される思考である。それは科学が発達した今の時代でも変わらない。なぜ「不安」が生じるのか。その原因は人間の欲求にその源がある。「死にたくない欲求」「年を取りたくない欲求」「お金が欲しい欲求」、、、、。仏教ではこの欲求に苦しむ人間を四苦八苦と称している。「生・老・病・死」と愛別離苦怨憎会苦求不得苦五陰盛苦」で8つの苦しみである。意味はそれぞれ調べればすぐわかるのでここでは書かない。これらは欲望ではなく欲求である。欲望とは最低の自己保存本能であり人間が自然的存在(動物的)である限り満足は得られなくとも精神的不安を感じることはない。しかし欲求は社会的存在であることにその根源がある。なぜ社会的存在であると欲求が生じそしてそれが不安となるのか。それを考えるにはそもそも人間とは何かを考える必要がある。しかし人間は生まれた時からこの根源的問いの答えを見いだせないまま社会的存在となる。社会とは個的人間の共通意志をベースに作られる。「平和」の概念も「戦争」の概念も同じ共通基盤から出てきたものだ。しかし、誰でも自らに「個別の個」というものがあることは否定できない。同じ風景を見ても或いは男が女を女が男を見る時もそれぞれの感覚思考は個別のものだ。こういうこともあるだろう。「憲法9条」よりも大事なものは果たしてないのか。あなたの本当に大好きな恋人よりも「憲法9条」が大事なのか。好きになった人が中国人であり韓国人でありイスラム人であることはないのか。なぜ社会的存在である前に「一人の私」としての自分をもっと見ようとしないのか。末法と言われた平安末期に当時の宗教界の総本山の比叡山延暦寺は高僧たちが乱れに乱れていた。その中から、法然親鸞が現れ、彼らは叡山を降り、民衆側に立った「極楽浄土」を説いた。特に親鸞は己の煩悩に苦しみぬいて解脱したが、それは小乗仏教のそれではなく耳を疑うような「悪人こそ救われる(べき)存在」であると説いた。今の時代であれば「安倍晋三こそ救われるべき存在」であるといことであろうか。実相の世を表層的に見るのではなくまさに己の煩悩を深く内省すればこそ到達できた”価値観”である。さて内省とは辞書的には「自分の考えや行動などを深くかえりみること」である。仏教学者の鈴木大拙はその著書『日本的霊性』で平安末期から鎌倉時代への移行期が日本が内省の時代に入ったとしてそれを日本の「霊性」の顕現した時代とし浄土宗が一般大衆に支持された理由は確かに非凡な法然・親鸞の力であるがそれを受け止めた民衆側の意識にこそ教えが拡大した主因があると説いている。実相の世の不条理を見続けている大衆の心の中に「人の存在の意味」を考える内省が芽生えたことは想像に難くない。21世紀の日本の今の実相を表層的に問うのではなくこの時代に生きている「一人の個としての己」をより深く見つめることがこの不条理からそして不安から脱却できる一つの術でないかとこの頃考える。