多分、官僚諸君はこのよう な批判にも動ぜず、自らの行動の正当性を特に積極的に主張することもないが、 自信を持って黙々と或いは誇りすら感じて、己の所属する組織の論理に従って行 動していることでしょう。もちろん彼らの信ずる組織とは日本と言う国民国家で はなく、省庁以外の何物でもありません。
さて、官僚制について最も深く論評しているのはドイツの社会学者マックス・ ウェーバーです。彼は近代社会の特長を近代合理主義の観点から官僚制を「個人 が精確な部品として働く有機的な機械組織」(M.ウエーバー『官僚制』)と定義 し、官僚制(行政)と機械化(産業経済)の結合が不可欠となることを予見しま した。しかし、ウエーバーは同時に官僚制の肥大化による悲観的想像も述べてい ます。 曰く、「”精神なき専門人”と”心情なき享楽人”が我が物顔で跋扈する社会が到来 する」「生命ある機械は生命なき機械と手を結んで、”未来の隷従の檻”を作り出 すように働く。」(同『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
自然科学的な機械論をそのまま人間社会にも適用しようとする流れが科学領域ば かりでなく現代社会の底流にありますが、ウエーバーの”予言”を今一度思い起こ すべきではないかと思います。
ついでに言えば、官僚制批判については、ハン ナ・アーレントがなかなか的確な官僚制弊害の表現を述べています。 「法律学的に言えば官僚制とは法による支配とは反対の、政令による支配であ る。法律は必ず特定の人格もしくは立法会議の責任において発布されるのに対 し、政令はつねに匿名であり、個々のケースについて理由を示すことも正当化も 必要としない。」(H・アーレント『全体主義の起源』) 我が国の官僚が積極的に行動する”アイテム”の一つは憲法でもなくまた法律(各 基本法)でもなく、まさに「政令・省令」であり、これを巡って地方自治体は言 うに及ばず産業界、果ては政治の世界までもが右往左往し、その様相を官僚は得 意げに且つ”匿名の支配者”として眺めているのでしょう。「縦割り行政」という 表現はいかにも批判しているように見えますが、どこかに「あきらめ」のような ものも感じます。
官僚制の批判ばかりしましたが、もちろん官僚制は絶対否定の対象ではなく、ウ エーバーの言を借りれば、「訓練を受けた専門的労働の特殊化・権限の区画・勤 務規則及び階層的に段階付けられた服従関係」であり、これが資本主義の生産拡 大の大きな要素にもなっており、ある意味我が国の経済発展も官僚の存在が寄与 していたのは事実として認めるべきでしょう。
社会システムにおける官僚制の在り方と如何に向き合うかが未来への発展の鍵と もなるのではないか、と思わせるペルー・リマでのエピソードでした。
<補論> さてしかし、残念ながらこの官僚制は行政組織のみでなく、身近な周辺において もその存在を我々は許しているのです。会社組織、組合組織、町内会組織、、、 組織と名の付くものには必ずや官僚制或いは官僚的な要素がありますが、我々も 霞が関に代表されるどこか自分と遠い存在と思われる官僚機構が実は我々の日常 の中に存在している事実に今一度振り返り気付く必要があるでしょう。