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ブル新

かつて60年、70年代の闘争時に「ブル新」という言葉があった。「ブルジョア新聞」の略であるが、そもそも、基本的に利益追求の資本の論理で事業展開する大新聞に対する揶揄と、闘争する側の基本認識としての大新聞に対する批判的姿勢の表現でもある。当時の状況で言えば、「朝日」が左翼的、「読売」「産経」が右翼的、「毎日」がどっちつかず(※「毎日」については聖教新聞を自社の輪転機で外注として刷っていたので学会の影響は相当あった)、「日経」はまだその政治的役割を十分には担っていなかったように思う。闘争中の様々な議論、或いは情勢分析の中でこの「ブル新」からの情報をネタにするのは少々気が引けたことを思い出すが、とはいえよほどのセクト原理主義でない限り、たとえば中核派の『前進』や革労協或いは革マル派の『解放』などの機関紙だけの情報に頼っていた訳ではない。個人的には属していた「ベ平蓮(ベトナムに平和を市民連合!の略)」の「週刊アンポ」が私には情報源の一つであったことを思い出すが、懐かしい冊子だった。

さて思いで話はこれくらいにして、ところで、安倍政権になってからマスコミとの癒着或いは既存マスコミの報道姿勢などへの批判が続出している。確かに現政府とマスコミの関係はズブズブであり、「報道機関」としての基本的姿勢は問われることは否定できない。「報道機関」は「立法」「行政」「司法」の3つの権力にこ加え「第四権力」とも言われるが、その基本理念については、『国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。』(日本新聞協会倫理綱領)としているものの、自ら定めた“権力から独立したメディア”にとても似つかない行動が甚だしい。(昨今の首相と報道関係者との会食報道を見よ!)そこが一般市民から見れば、批判される根拠の一つにもなっている。

しかし、私は前述した「ブル新」という概念で既存マスコミを見ているからか、個人的には彼らの行為は“資本主義的態度として当たり前”であるとしか思われないのでそれほど怒りは湧かない。だからと言って彼らを肯定しているのではなく敢えていえば無視の対象である。ちなみに新聞(「ブル新」)を家庭で取らなくなって10年経つが情報入手には事欠かない。

とはいえ、個人的にはともかくもこのような既存マスコミの態度の社会に対する影響はやはり甚だしくおかしいと言わねばならないだろう。最近の新聞やTVを見ているとその広告・宣伝の量の多さに気づかされる。広告についてはその総量を、新聞においては「紙面の50%以下」(第三種郵便規定)、TVにおいては「週間のコマーシャルの総量は、総放送時間の18%以内」(日本民間放送連盟放送基準)となっている。しっかりとして調査をやった訳ではないので何とも言えないが、感覚的には新聞・TVとも基準を上回っているようにも感じるがどうだろうか。仮に基準を守っていたとしても、実は裏ワザがある。いわゆる「タイアップ報道」だ。一見、普通の記事、番組のように見せかけて実は企業の宣伝となっているという代物である。民間TVのニュース番組や一企業を取材してそ事業性の斬新さなどを伝える番組(『カンブリア宮殿』など)を見ているとその疑いをぬぐいきれない。

確かに報道機関と言えど所詮利益を追求しない限り成り立たない事業であるので、その最も大きい収入源を広告に頼るのは当然だろう。今から6年前になるが、当時のトヨタ自動車奥田碩相談役の発言が物議をかもした。奥田は、当時の厚労省に関する批判報道について、「あれだけ厚労省がたたかれるのは、 ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。 スポンサー引くとか」と発言した。これが広告主の態度である。奥田はスポンサー(資本家)として本音が出たのだろう。「第四権力」とは分立の理念から言えば、このような力(恫喝)に対してもひるまない力であることから付せられた言葉である。しかし、ジャーナリスト、ジャーナリズムの理念も忘れ、時の権力に阿り、なにを勘違いしているのか自らを「特権階級」のように振る舞うマスコミ関係者(経営陣現場問わず)を見るたびに「カネに操られた憐れな低級な品性の無い輩」にしか見えない。余談だが、先日、古舘伊知郎のトーキングブルースという番組(BS)を眺めていたが、ネットでは相当高い評価を得ていたようにも思うが、かなり中途半端な“しゃべり”であったように思う。古舘の言おうとする「意志」はそれなりに伝わったが結果として出る「言葉」そのものが中途半端だったからだ。古舘はジャーナリストというよりタレントであるから、意地悪な見方をすればこれも「ヤラセ」かもしれないなどと考えたりもした。とにかく「ブル新マスコミ」の背後は魑魅魍魎なのである。

さて、最後に年末年始のマスコミ媒体の内容には殆ど興味をひかないが、「ブル新」的な観点からいろいろな報道・番組をみるとまた面白い想像・妄想が湧くかもしれない。これを楽しみにするしかないくらいサビシくシニカルな私の年末年始のようだ。