不思議な夢 臨死体験

昨夜の夢はとても不思議だった。いわゆる「体外(幽体)離脱」というものだったように思える。夢の中で私は車を運転していたのだが、途中でブレーキが効かなくなり必死にブレーキを踏むもそこは下り坂。スピードは益々上がり、その先のカーブ(確か左カーブ)が徐々に目の前に近づいてくる。そして、、、衝突!その瞬間はまさに”瞬(まばた)き”の時間だった。夢であるからだろうか、衝撃の痛さは感じなかったが、しかしここで不思議な光景に会う。思い返せばこの時「体外離脱」が起きたように思う。夢の記憶を振り返ってみる。まず、何故か乗っていたのは車(4輪)であったのがオートバイ(2輪)に変わっている。しかも、”衝突した”私がそのオートバイに乗っている私を認識し、その衝突シーンを目撃している。そして場面は右往左往する人たちと全身を打ち無意識の私が横たわっている事故現場に変わる。その中には見知った顔もあり、その中で妻が必至に叫んでいる。しかし、体外離脱したと思える”私”はその光景を中空(地上10mくらい)から見ている。その時の見ている私の感情は特別激しいものでもない。すこぶる冷静だ。そして、横たわった私を私が見つめる。全身を傷つき痩せた半裸の状態の私の顔は、しかし何故か穏やかである。ここで、離脱した私はふとこう考えた。「この横たわった私に私が近づけば私は私と一緒になれる。そうすればまた生き返ることができるのではないか」と。そう考えた私は、しかしすぐにはそうしなかった。躊躇という訳ではない。「私が私を見つめている。私と私が同居している」という感覚の心地よさがあったのだ。とても不思議な快感だった。この離脱した状態に確かにこのように考えた時は、夢の中の出来事ではあるが、意識の層は表層に近いものだったように思える。この時はもう既に夢から覚めつつある自分を認識出来ていたが、離脱した私の側に主体も移っている。

さて、夢から覚めた私はまたいつもの日常が始まった。夢の話を妻に語った所、「縁起でもない!」と一喝されてしまった。あの心地よさを人に語る(説明する)ことはなかなか難しいようだ。しかし、私が私の中にいるもう一人の私に出会ったことだけは”事実”なのだ。

この夢ともしかしたら関係ある(影響されている)と思われるのが、現在読書している、井筒俊彦の『意識と本質』である。東洋思想(哲学)における存在論的内容であるが、特に宋学と禅についての著述に気を魅かれた。夢を積極的に心理学において活用したのがC.Gユングだが、彼の「無意識(深層心理)」の世界を井筒流に東洋思想とクロスさせた分析はなかなか面白い。そこで井筒が展開した「意識のゼロポイント」或いはブッダの言う「無」の世界へアクセスするパスポートの申請書を手に入れたように感じるのは、私の一人妄想の為せる技なのだろうか。