大川周明のこと

先般、神奈川県愛川町にある古民家「山十邸」に行った。敷地1000坪はある山十邸は愛川地域の豪農だった熊坂家の住居として、明治初期、熊坂半兵衛の代に建てられたものだ。ちなみに「山十」とは熊坂家の屋号である。母屋は当時には珍しい瓦葺で24畳の大広間、15畳の奥座敷のほか、10畳を越える部屋が6つもあり、しかも“農家“とは思えない格調高い佇まいであり、武家屋敷と見間違えるほどであったが、囲炉裏室や土間は農家のそれであり、明治初期の「豪農」と呼ばれるものの生活ぶりとその精神性が伺える気がした。愛川町では、この建物と庭園を修復し、「かながわの建築物100選」の一つともなっている。

さて、今回この山十邸を訪れた目的は、残念ながらこのような古民家への興味ではなく、この山十邸を購入し、昭和19年から32年までここで暮らした人物が、思想家「大川周明」だったからだ。大川周明は戦前の右翼思想家で「東京裁判東条英機の頭をたたいた」、というエピソードくらいしか残っていない人物であるが、なかなか興味深い人物である。彼は東京帝国大学インド哲学を学んだことからもわかるように、インド独立運動に深くかかわった経緯があり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)なども執筆している。日英同盟の立場から当時のインドの宗主国であるイギリス側にたつ日本に対し批判的であり、日本に密航亡命したインド独立運動の闘士を匿ったりしたが、その闘士の一人がラス・ビハリ・ボースである。ちなみにボースについては、新宿・中村屋の「インド式カレー」を伝えたことが有名な話になっているのでご存じの方も多いのではないだろうか。

大川の思想の根となるものは岡倉天心の「アジアは一つ(論)」だが、大川はこれを日本固有の思想と中国の儒教、インドの仏教の3つが有機的に融合する「三国魂」を「アジア精神」と標榜した。これらの考えは後に曲解され、「大東亜共栄圏」としての日本のアジア侵略の思想的根拠とされ、また大川自身もこの侵略戦争を肯定した人物としての評価が一般的になっているが、彼は、著書『新東洋精神』の中で、「・・・若し日本人が昔の支那人の如く、吾々だけが本当の人間であって、他の人間は皆な夷敵であるという、さふいふ高慢な態度を以て異民族に接するならば、左様な独りよがりの国民には決して心服して来ません・・・・・・現在の大東亜戦争においては、左様な思想戦は無力であります。少なくとも現在並びに近い将来において左様な精神の所有者には、アジアの諸民族はついてこないのであります・・・・」と述べ、日本的価値の押し付けを愚策として排除している。先述の東京裁判時における東条英機“殴打”事件は、東条らが日本的価値の押し付けとして推進して敗れた戦争に対する大川なりの“評価”だったのかもしれない。もう一つ、大川の思想の大きなところは、アジアの範囲をイスラム圏にまで広げたことだろう。著書『復興亜細亜の諸問題』においてこうも述べている。「西はエジプトより東はインドに至る回教徒が、相結んで欧羅巴(ヨーロッパ)に当たらんとする機運が、漸く動いてきた。復興亜細亜の前衛たるべき回教聯盟が、その恐るべき姿を現すべきことは、最早万一の僥倖に非ず、寧ろ理由ある期待となった。この回教聯盟を度外して、来るべき世界変局の正しき想察は不可能である。・・・・吾らはこの種の回教運動が近き将来の世界政局に於いて、重大なる役割を謹む可きことを確信する。」どちらかと言えばイスラム教とは縁が浅い日本であるが、現在の世界状況をみれば大川の先見の目は評価に値すべきであろう。

このような大川の思想を「大アジア主義」と言うが、背景にアジアに対する欧米露列強のすさまじい植民地化攻勢があり、そのような中で「脱亜入欧」という政策を取った維新日本に対する批判精神の上で新しい道を提起したものであると言える。大川のような思想は戦後の民主主義化政策、特に占領国米国による日本研究において最も「危険思想」とされ、その芽を摘み取るような策が講じられて来たが、現在の迷走する日本の状況を打開する新しい一つの考え方かもしれない。

余談であるが、大川周明の生れ故郷は山形県庄内地方の酒田である。酒田は異能の軍人石原莞爾を産んだ地でもあり、大川も石原も『南洲翁遺訓』(旧庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたもの)を熟読している。西郷隆盛の(西南戦争に対する)一般的な歴史評価ではなく、西郷が思考した「アジア主義」をその根底から問い直した大川や石原らの夢と無念に少しだけ触れた山十邸訪問であった。