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ある恩人への手紙

<まえがき>

先日三島由紀夫についてのコメントを出したところ、ある方からこっぴどい“逆コメント”を頂いた。私の人生にとって大きなまた且つ思想的影響を頂いた恩人でもある。その逆コメントに対して、彼への反論ではなく心情の吐露として出した手紙だが、自分の頭を整理したく敢えてFBページに掲載することにした。(※親書ではないので公開することにしました)

 

<手紙>

こんにちわ。

いつも駄文の通信をお読みいただき、また真摯なご意見を頂き誠に恐縮至極です。

元気かと言われれば、肉体的にはまぁ問題ありませんが、精神(意思)面において大きな”産みの苦しみ”とも言うべき、思考・思弁上のシンドさを感じている最近です。

きっかけはやはり3.11でしかありません。3.11以降の日本という国、そしてそこに暮らす一人ひとりが否が応でも、「生きること生きていること」の意味を問い直すしか道がないということを感じていましたが、やはりそうだと思います。

政治の混乱、狂乱的金融施策、日常の非条理な殺人事件の数々、交感神経のみを刺激させ消費させる都会と限界集落の対比、、、、とにかくありとあらゆるもの或いは状況というものに道理がない今。

これを何とか合理的な言葉或いは教条的な歴史認識で捉えようとしても捉えきれない、説明できない何かがある。

随分昔に○○さんに「お前には思想がない!」という言葉を頂き、ある意味その言葉をずっと考えまたかみしめながら今まで来ましたが、皮肉なことに3.11が私にとっての”思想”というべきものの再構築のきっかけを与えてくれたようです。

3.11以降は、そのような自らの思考・思弁・思惟を通じながら”(ゆるぎない)思想”を求めて濫読する(週間1000ページ目標)日々ですが、もちろん肉体労働を続ける中でのことです。

まぁ、三島についてはそのような状況のなかでふと40年ぶりに読んだ対談集が結構新鮮に感じたこともありました。評論家的ですが、この対談集の直前に高橋和己の『孤立無援の思想』と『非の器』を読んだことから三島と高橋の対談に中に、今の現状を把握する一つの視点を得たということもあります。また劣化人間慎太郎もまだこの対談時は38歳(三島は44歳)で、「自由」に対する認識がそれなりに納得できる発言もしていたこともあり、通信に書いたという次第です。

弁解ではありませんが、三島を美化するなどという意識は毛頭ありませんし、あくまでも同時代的個人としての作家三島由紀夫という人物を再評価したかったというのが真意です。

東大全共闘と三島の討論については当時からいろいろな見方議論もあり、確かに状況論というかシチュエーションとしては○○さんの言うことも一理あるでしょう。(反動としての)三島からみれば彼自身が「本当に(左翼)革命が起きるかもしれない!」という危機認識があったことは本人があちこちでしゃべっていますし、居ても立ってもいられない三島の心情があったのかもしれません。そういう意味では、結果として三島も権力に利用されたといえばそうなのでしょう。

当時の東大全共闘小坂修平氏の『思想としての全共闘世代』を読みましたが、彼は直接三島とやり取りした人物ですが、そこでは彼の率直な三島観が書いてありました。(結構肯定的に!)

今、この日本の混乱の原点と言う意味で、歴史をさかのぼって学習していますが、やはり「明治維新-日露戦争-1次大戦-2次大戦」という歴史的眺望で見ればわずか80年の間の日本人の意識・思想の変遷の中にヒントがあるのではないかと思います。太平洋敗戦後の戦後民主主義としての戦後精神については左翼(的)論壇より多くの歴史認識の視点が出されていますが、その多くは、維新から2次大戦に突っ込んでいく日本の政治権力の思想と構造を平面的にしか捉えていない、或いは、それは「左」として権力より弾圧された過去に対する相対反動的基盤でしかない。丸山真男などはそのような狭間でけっこう悩んだ人物なのでしょうが、彼の弟子ともいえる藤田省三などもまた違った角度で戦後精神史の中に、維新以降の日本(人)の思想系譜を見ています。

確かに、60年安保そして70年安保は大きなエポックメイキングな出来事でしたが、その歴史的意義をやはり再評価する必要があると思われ、それは「権力と反動に対する闘い」という表層的な側面で捉えるのではなく、維新以降の日本人の精神史思想史の根底に流れる”何か”を捉えない限り、反核兵器も反原発も政治的イデオロギーの象徴としての限界を超えることができないのではないか、という気がします。

もちろん、有機体としての人間に根差す心情からの「反原発」の闘いは当然といえば当然です。しかし、「福島を逃げない人たち」という象徴的表現ですが、このような存在、あるいはもっと過酷(な発言)とも言える大飯原発地元首長の「命より金!」と言った発言のリアリズムをキチンと捉えない限り、日本の原発を巡る問題は、収拾できないのではないか、という思いもあります。

人間の行動の(違いの)表層をみるのではなくそこに至るまでの逡巡や葛藤は必ずある訳で、そこをドグマとしての一般論的認識ではない、もっと根源的に共有できるモノ(思想或いは仕組)に還元していく努力が必要なのではないか、福島或いは被災地に対するボランティア活動の中にこそそのような共有化を図るべきであり、そして今の状況を質的にぶち破る力が生まれるのではないか。

そのためには、「反原発」というシングルイッシューではなく、「格差貧困」「福祉環境」などの幅広い視点からの問題の顕在化と共有化を図るべきではないか。

最近、反原発にはいわゆる「右」からの参加も大きな流れとなっており、また結構若い世代がこの「右」に包括されています。彼らの何人かとインターネットを通じて”知り合い”になりましたが、これは従来の低俗劣化右翼と違い、素な心情な若者たちであり、またそれなりに日本の「対米従属構造」を見ており、これを旧来右翼(アベ、アソウなど含む)は何とか利用しようと画策しているようです。反原発運動に臨む彼らの理念は「正義感」と「愛国」以外の何物でもなく、鈴木邦夫氏(「一水会」)もそのように発言して反原発活動を積極的に行っています。

この「右」の流れと連結できる運動体が構築できないものか、が目下の思考の的です。

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いろいろ思いつくままに書いてしまったので何を言いたいのかちょっとわからなくなりましたが、申し訳ありません。

 

自分の人生を振り返りみてみれば、やはり○○さんとの出会いは私の人生にとって大きくそして貴重な出会いでした。そして今でもこのようなやり取りができ、自らの成長発展にかけがえのないつながりと言葉を頂くことができる感謝の念でいっぱいです。

いろいろと問題ありの川口ですが、今後とも引き続きご指導ご教示をよろしくお願いします。

たまには酒をのみながらしゃべりたいですね!

 

かわぐち