8.15を前にして

今年も8.15が来る。

原爆投下の8.6広島、8.9長崎もそうであるが、これらの日が形骸化されたイベントデ―に成り下がって久しい。時の首相の靖国訪問だけが取りざたされ、右と左の硬直した主張のリフレインの集会が毎年繰り返される。原爆デーにおいても「核兵器廃絶」「過ちは繰り返しません」の言葉の羅列が空しく響く。長崎市長が日本政府を批判したことがニュースになったがそれだけのことである。

これが、現在に生きる我々が目にしている、「福島」は今も現在進行形で人間と社会の破壊と崩壊が進んでいる中での出来事である。

8.15から今年で68年になるが、「戦争に負けた」ことの意味が、単なる歴史の一齣としての「無機質な事実」になるのは時間の問題と思える。初めての世界大戦が起きた1914年から来年で100年。今日の誰が第一次世界大戦に現実的意味を見出し捉えているだろうか。歴史認識という言葉は実に便利なものである。「歴史を見る時に偏見でみてはいけない」などというもっとも(に聞こえる)な言葉で思考を遮られる。

「歴史とは現在と過去との対話である」という有名な言葉を吐いたE・Hカーは「歴史は過去に対する建設的な見解」であると述べ、「非歴史的民族とは、理想のない民族であり、前方を見ないが故に、過去を見ない民族である」とも述べている。

日本或いは日本人の中には、意識的或いは無意識的に現在的事実と過去的事実に使い分ける発想があり、「水に流そう」という至便な言葉で責任の所在とその行使を逃れる傾向があるように思われる。

1945年の8.15そしてその66年後の2011年の3.11。

この“歴史的事実”に対して、果たして我々日本人は「建設的見解」を見出し、困難ながらも新しい理想を掲げ突き進む「希望と勇気と忍耐」を持つことができるのだろうか。それともE・Hカーの言うが如く、我々日本人は「非歴史的民族」なのであろうか。