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花は花は花として、、、、へのまごうことなき我が心情

震災後から国営放送を中心に流されているあのメロディーと詩。最初から違和感を持ったものだが、最近ますます体全身が拒否反応を示すようになった。メロディはリフレイン効果とでも言うのだろうか、ヒット曲の要素を入れているのだろう。また、詩に至っては、情感的であるが、ふわふわした言葉の羅列でしかない。

もともと「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして、被災地(仙台市)の出身者である岩井俊二菅野よう子がそれぞれ作詞、作曲をした曲で、テレビでは、同じように被災地出身の有名タレントやスポーツ選手がこの歌を歌う映像が繰り替えし放映されていたので全国民のほとんどがこの曲を耳にし、また頭に“入れ込まれた”と思う。

一般論としては、あのような大災害で、少しでも被災者の癒しにつながるならこのような楽曲が流れるのは良いではないか、という判断価値もあろう。しかし、当初から、いくら震災地出身と言え、多分東京に居住し、それなりに恵まれた方々が歌い語りかける映像と音声からは、表面の彼らの「やさしく、いつくしむ」表情と言葉とは裏腹にますますその距離感と彼ら自身の“無意識の犯罪性”を感じてしまう。それは、出演者の個別一人、一人に対するものではなく、彼ら自身の“善意”(これに対しても懐疑的であるが、、、)というものを利用して成立しているプロジェクトの本質的な意味と狙いに対してであり、またあの歌を作曲した菅野よう子の「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」という言葉に表れているが如く、そこには被災者を利用した“エゴ”というものを感じざるを得ない。

一方、これを聞く側の大衆にもこの歌を承認することによる免罪符効果があるのではないだろうか。だから、この歌を多くのものが“評価”する。

3.11が日本人全員に与えたのは、確かに「自然の不条理な力」ではあったが、そこに「福島第一」があったことの意味は、これまでの長い日本の歴史や社会認識を一挙に失った忘失感と自身の精神的自己喪失である。しかも、そこには非情な「被災者とそうでない者」「震災津波被災者と原発被災者」という二重の分断がされてしまった。その構図は、そのまま「花は咲く」を唄う出演者と被災者、非被災者と被災者の間の埋めようのない距離であり分断である。耳触りの良いこの歌はこの距離感と分断を果たして埋めているのだろうか。

このプロジェクトを作為であり、詐術であると思うのは、その分断がこの日本をすっぽりと蓋っている「無責任」と「エゴ」に由来するものと賢明な日本人であればほとんどのものが心の奥では感じているはずの心情を、表に出さない、出せないことへの共犯の道具となっていることである。

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「(共犯にはなりたくないから)この歌を聴きたくない」と、映像が出るたびにチャンネルを切り替える行為にたいする複雑な後ろめたさを感じる私に関係なく、今日もこの歌が流れている。

 

<追記>

作家の辺見庸はこの歌を「俺はあれが気持ち悪い。だってあの歌って(戦時中に隣組制度を啓発するために歌われた)『とんとんとんからりんと隣組』と一緒だよ」と喝破している。

 

http://mainichi.jp/feature/news/20130509dde012040020000c.html

 

また、最近は、被災地(に限らないが)の生徒や住民などもこの歌を歌う映像が流されている。ますます、分断効果が複雑化している。