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ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレントはドイツ(ユダヤ系)生まれのアメリカ政治哲学者です。以前(学生時代)から名前だけは知っていましたが、なかなか彼女の書いたものに出会う縁が無く数十年が過ぎましたが、ふとしたことで8月に古書店で購入した『人間の条件』を読んでいるところです。しかし、これがなかなか難解で1ページを理解するのに一日いやそれ以上かかる代物であることに気付いた時は、本を放り出すには遅すぎるほどのめりこんでしまっていました。ちなみに、全522P中、3か月かけてやっと100P到達です。それはともかくも、(この本へ)のめりこむ切っ掛けは本書の最初のプロローグにある二つの言葉でした。「近代の解放と世俗化が、今度は、空の下の万物の母である地球からももっと決定的に離れることによって終ろうとしているのだろうか」(本書011)

「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明であろう」(本書013)

この二つの言葉からは、福島第一原発の現実的危機的状況の真っただ中にある中での思考の迷走に少なからず“ヒント”を与えてくれるものではないかという期待からでした。彼女は、人工衛星から月面到着に至るまでの「宇宙と人間」、そして原子兵器の開発とオートメーションの進展による「脅威」から根本的な人間の生存理由を探ろうとしたのが本書『人間の条件』ですが、まだ読了していないのでここではこれ以上本書に対する論評は控えたいと思います。もし興味ある方がいらっしゃれば、ちょっと忍耐を必要としますが是非お読み頂きたい書物です。

さて、ハンナ・アーレントの経歴は波乱に満ちており、その経験が彼女の数々の著作のベースとなっているのは誰もが認めることですが、単に個人的経験を恣意的或いは自覚的にのみ捉えるのではなく、深い思索の中で思弁するその“生き方“そのものの魅力ではないか、と思います。1906年ユダヤ系ドイツ人として生まれながらドイツを亡命(1933年)、フランスに行くもまたナチズムにより強制収容所に放り込まれる。その後アメリカに渡り10年後にようやく市民権を得る(1951年)のですが、その半生は文字通り「国家なき人間」としての経験です。彼女は、ドイツでの学生時代、マーブルク大学でハイデッガーに、ハイデルベルク大学ではヤスパースに、フライブルク大学ではフッサールにそれぞれ師事します。彼女の知性を垣間見る思いですが、ハイデッガーとしばし恋愛関係にあったことも知られており、知性のみならずロマン的な感覚も持ち合わせていた女性だったことが伺えます。それだけでも十分に魅力ある女性ですが、同時代のシモーヌ・ド・ボーボワールがジャン・ポール・サルトルと恋愛に陥った物語と非常に対照的な生き方であったと思います。アーレントのもう一つの本質的な”顔“は、ナチのゲシュタポであったアドルフ・アイヒマンの裁判における彼女の発言でした。ユダヤ人の彼女が、アイヒマン裁判で”結果的“にアイヒマンを擁護する発言をしました。曰く、「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ」「君が大量虐殺の道具となったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、大量虐殺の政策を遂行し、それ故積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治というのは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む──あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように──政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である」

この言葉こそ、福島第一に関わる全ての人間に対する問いではないでしょうか。もちろん我々市井の名もなき人も含めて、です。福島第一の真の解決のヒントを与えてくれる言葉です。

このハンナ・アーレントが初めて映画化されました。今週10月26日から岩波ホールで上映されます。先週、東京国際映画祭でも上映されました。是非見て頂きたいと思います。

 

「本当の悪は平凡な人間が行う悪です」「これを悪の凡庸さと名付けました」(映画ハンナ・アーレントより)

 

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

http://2012.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=215