美智子皇后と五日市憲法

美智子皇后は10月20日に79歳の誕生に当たり、宮内庁記者会見への回答メッセージで「五日市憲法草案」に触れた。おりしも日本国憲法改悪の流れが加速化している折の皇后の発言としては異例中の異例だろう。

少し長くなるが引用する。

 

・・・引用開始・・・

「・・・5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。・・・」

宮内庁 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html

・・・・・・引用終わり・・・・・

 

五日市憲法は、維新後の日本の政治の在り方をめぐる激動の中で、「自由民権」を掲げる国会期成同盟が全国各地のグループに憲法草案(私擬憲法)の作成を呼びかけた中の一つである。ちなみに我が革命家植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」もその一つである。維新から明治23年の「大日本帝国憲法制定」までの間は、薩長の藩閥政治が主流となる流れの中で、西洋の「市民意識」の思想が下層武士階級や豪農などに自然発生的に広がり、その結果政府権力を握っていた薩長閥との間で鋭い対立構造が生まれ、危機を感じた時の政府が力づくで弾圧した経緯がある。日本では初めてと言える“下からの”政治運動であり且つ不充分ながらも「市民意識」の芽生えがあった運動である。結果的には、福島県喜多方事件、秩父困民党事件など暴力的弾圧により壊滅してしまったが、その歴史的意義は大きいものである。

そのような構図にある「五日市憲法草案」を今上天皇の皇后が評価する発言をした意味はとてつもなく衝撃である。皇后の発言は、その言葉の表面だけでなくその奥に、市井から皇族へ入った美智子皇后の“一人間としての思い”を強く感じる。平和憲法、特に9条改正を目論む改憲勢力はこの皇后の発言をどのように感じるのだろうか。

 

参考:五日市憲法 http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html