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小泉純一郎と山本太郎

今の日本をある意味象徴している出来事である。

小泉純一郎の“発言”と山本太郎の“行動”が日本中に混乱を招いている。これをどうみるか、いろいろ思考するのだがなかなかその切り口が見つからず消化不良状態が続いている。しかし、この二人、年齢、経歴など非常に対照的な存在だ。小泉は、政治家家系の育ちであり若くして政権政党の組織人となる。方や、山本は関西のごく平凡な家庭で育ち、芸能人を目指したどこにでもいる若者だ。小泉は現役の政治家を辞した人物であり、方や山本は政治家になったばかりの人物である。一つのテーマを巡っての、過去の政治家でありながら大きな政治的影響力を現在でも持っている人物の「発言」と現役の政治家ながら評価する経歴もまだ少ない人物の「行動」に共通しているハプニング性に右往左往しているという状況ではないか。

さて、小泉は「過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」と論語の句を用い、「人の考えは変わる」と言っているが、彼のような立場の人間に、かような一般論的言辞が許されるなら人間何でもやれるだろう。政治家は「言論」とともに「行い」が重視されるべきであり、その帰結としての「結果」に対する「責任」も要請されるのではないか。小泉は、自らも発言したように現役時の原発推進派としての頭領でもあった訳だが、今回の事故の結果(数多くの国民の被曝被害等)に対する自身の責任についての弁明はまだ述べていない。しかし、それでも“小泉の発言”としてもし容認できるとすれば、福島被災地へ直接赴き、被災者の前で直接訴えた時であろう。オンカロ行く前にまず福島へ行くべきではないか。それが小泉の言葉が本物かどうかを見極めるリトマス紙だろう。

一方の山本はいわゆる「直訴」という形で、天皇へ手紙を渡すという行為を行った訳だが、右から左に至るまで、どちらかと言えば非難する声が多いように思われる。その根拠に「国会議員の品位」「憲法の遵守」「不敬罪」、、、etcなどが上っているが、確かにルールという物差しをベースにすれば彼の行為は「ルール違反」として取り扱われるべき行為ということになろう。しかし、これまでの山本の言辞と行為の流れからみれば、その帰結としての「行動」として一定の理解は出来る。今回の行動が果たして、いわば純粋ではあるが稚拙な山本個人から出たものなのか、或いは用意周到に計算されたものなのか、現時点では何とも言えないが、3.11からとにかく虚偽と逃避をくりかえす東電・政府に翻弄されながら、だんだん過去の物語にしようとしている、或いはなろうとしている日本人全体に対していろんな意味で目を覚まさせてくれる効果はあったようにみえる。とはいえ、彼の「政治家」という権力の行使効果については小泉には遠く及ばない。山本が単なるヒロイズムの存在なのか、或いは60万と言う支持票を背景に、原発廃止という目標に向かう運動を構築できるのか、それが問われるだろう。

いずれにしても、立ち位置が違う個性豊かな二人の新旧政治家が、共に同じテーマに対する同じ目標を、一方は「言辞」、一方は「行為」で行うという構図をどのように見ればよいのか、鄧小平の「クロネコ白猫理論」のように「原発ゼロ」を唱えるのであれば、「誰でも良い」という考えもあるが、我々市民が試されているのかもしれない。

それはそれとして、蛇足だが、山本の行為が「天皇(制度)」を巡る近年は一種タブー化しているとも言える問題を図らずも表に出す結果となったことは面白い。