才能は誰のものか!<小保方論文考>
小保方さんの論文問題がいろいろ取りざたされています。
少しちがった観点から考えてみました。
誰でも、それぞれ”特技”をもっていると思います。
「足が速い」「絵がうまい」「料理が上手だ」「コンピュータプログラムが書ける」・・・・
書ききれないほどの”特技”が世の中にはあふれています。
たぶんその特技は皆さんの日ごろの努力から生まれたものでしょう。
一方、それほど努力も無しに(少し語弊がありますがご勘弁!)豊かな”天賦の才”に恵まれた人々も多くいます。
そしてその能力は、普通は「特技」といわず「才能」と呼ばれます。
「スポーツ選手」「芸能人」「経営者」「政治家」「芸術家」「科学者」・・・・・
彼らは結構若いときからはなやかな業績や作品を作り出し、高い社会的評価も受けます。
しかし、その人生をずっとその「才能」を活かして全うしている人は意外というか、非常に少ないですね。
ところで、この「才能」とはいったい誰のものでしょうか?
果たして自らの内部にそもそも備わっていたものが発現した結果でしょうか?
先ほどの「天賦(てんぷ)」という言葉は、「天から授けられた(与えられた)」という意味です。
「与えられた」という意味からすれば、たまたま一時的に自分に”負託”された、ということでしょう。
才能は自分のために使うとそのうち枯渇しますが、他人のため使うとますますそれに磨きが掛かってくるということは、みなさん何となく納得できるのではないでしょうか。
ところで、小保方さんの問題の一つに「知的所有権」という要素があります。偉大な発明・発見に所有権が発生するのは「当たり前」という考えが今は大勢を占めていますが、果たしてそうなのでしょうか。
現実的には、「所有権」という「財産」であることからそれが「お金」につながる訳で、今回の問題の一つもそこに要因があるようです。
しかし、小保方さんの才能も言い換えれば社会から育まれたものであり、その成果は小保方さんを含む社会全体で共有すべきものではないでしょうか。もし、彼女を含む才能ある科学者たちが「価値を共有する社会」で研究を行っていれば、仮に試行錯誤はあってももっと違った結果が出ていたように思われます。
最近の世の中、いろいろな「才能」を持った方々が出てきていますが、その才能は「与えられた」ものである、
ということを自覚して、他人のために発揮していただきたいものですね。
最後にアメリカのロック歌手であるマドンナの言葉を添えます・・・・。
『与えられた才能は、自分のものだと思うようになった瞬間からどんどん無くなってしまうものなのよ。』