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中谷巌の”改心”とポランニーの互酬

中谷巌と言えば、細川内閣、小淵内閣で「経済改革研究会」「経済戦略会議」などの指導的立場で規制撤廃論をぶちまき、その後の市場万能論、小泉新自由主義路線への露払いを行った人物でもある。その中谷が、いわゆる「転向論」として『資本主義はなぜ自壊したのか』を書いたのはまだ記憶に新しい。そこでは「今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や市場至上主義の価値をあまりにもナイーブに信じていた。・・・・<略>・・・・さらにはアメリカ型の市場の原理の導入によって、ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、さまざまな副作用や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった」と悔いている。その中谷が、2012年に前著に続き、『資本主義以後の世界』(徳間書店)において、「長らく世界の経済発展を牽引してきた西洋主導の資本主義体制が大きな壁にぶつかり、歴史的使命を終えたかもしれないという前提で書いた」と述べ、続いて「このようなグローバル資本主義の危機を克服するには、おそらくは早晩、「文明の転換」が不可避になるであろう。」と述べている。このような認識は、“ミスター円”と言われた榊原英資も中谷よりも過去に「クレバーな人たちは、おそらくそういう世界経済の破綻がくるだろうなと思ってますよ。だからそう遠くない時期にシステムとして破綻するというのはすでに見えてるわけです。」(1998年『諸君』)と述べており、日本の経済政策に大きく影響を与える立場の人物の発言にこのように資本主義というシステムの限界に対する共通する認識があったことは驚きとともに“やはり”、と納得せざるを得ない。中谷は、自らのべた「文明の転換」の考え方として、「利己的な欲求追求の手段としての市場至上主義を修正し、利他的な「贈与の精神」が組み込まれた社会システムに回帰」する必要を説いている。

 

実は、このような人類の経済の仕組みの在り方をめぐる思考過程における“贈与論”は古くは古代ギリシアにおけるアリストテレスから議論されていた。カール・ポランニーは「古代ギリシアの4つの命題」として、

 

①人間の経済には、「互酬性・再分配・交換」の三つの統合形態を基本とする、「交易・市場・貨幣」のさまざまな利用の仕方や制度化の方法がある、

 

②人間の社会は、交易・貨幣・市場を巧みに組み合わせ、制御し、束ねながら経済生活を制度化してきた

 

「互酬性」という相互扶助的な社会関係が破壊されるにつれて、個人は貧困と飢餓の脅威に直接晒されるようになる。個人的飢餓の脅威が蔓延すると、社会は個別的な利害によって分断され、汚職と不正の時代を招くことになる

 

都市国家アテネの市民にとって、飢餓の脅威は、それまでの経済過程の制度化が機能不全に陥ったことを意味し、国家の衰亡を暗示した、

 

と分析した。

 

このポランニーの論点の基本は「自由論」というものの解釈であるが、市場原理主義における「個人的自由主義」と「経済的自由主義」への対抗命題としての「社会的自由主義」を掲げている。社会的自由とは、「典型的な市民のイデオロギーにおけるように義務や責任から自由であるということではなく、義務と責任を通して自由であるということ」(1927年)である。ポランニーは、「この社会において個人の選択や決定による行為は本人が意識するかしないかに関わらず他者や自然に対して影響を及ぼしており、社会的存在としての人間はその責務を負担するべきである」としているが、現代の環境問題や原子力事故等に対する個人としての関わりがどのようにあるかを見る上でも示唆的な言葉ではないだろうか。

 

さて、ポランニーはこのような社会的自由論を実現する上で欠かせない経済システムの仕組みとして、(彼がその万能的思考を批判する)市場経済が起こる以前から原始的経済原理としての交換方式の「互酬(ごしゅう)」に着目している。彼は人間生活を維持する3つの方法として、「互酬」「再分配」「交換」を示しこの統合形態を経済システムの基礎とし、これを『人間の経済』という概念で捉えた。「互酬」とは読んで字の如く「互いに報酬を受け取る」ことである。この場合の報酬とは金銭による交換ではなく、物々交換である。ポランニーの思想理論についてはここでは十分に書き切れないが、中谷がそれまでの市場万能論から「文明の転換」の必要を感じ、そこに「贈与の精神」の必要を見たことは、ポランニーの唱える「人間の経済」とほぼ重なる見方と言っていいだろう。

現代の粉々と言っていいくらい分断された個人間に、再度、共同・協同的つながりを作り上げ、そこに「贈与(互酬)」の精神をどのように組み込むのか、それが問われている。中谷の前述の著書『資本主義以後の世界』の言葉で本論を締めくくりたい。 

 

「・・・「文明の転換」は確かに容易になし得ることではない。我々が慣れ親しみ、日常、当たり前だと信じている思想様式や行動様式を覆すのが「文明の転換」であるとすれば、それは想像を絶する困難を伴うに違いない。現実主義者が、価値観の変換を必要とする文明論的なスケールの解決策を非現実的と考えるのは当然であろう。しかし、それでもなお、今日の資本主義世界の閉塞状況を見れば、いずれ「文明の転換」が必要になることは間違いない。問題はそれがいつのことになるのかということだ。それはすぐそこに迫っているのか、五○年も先のことになるのか。これは誰にも正確に予測することはできないが、世界経済の現状を見れば、いずれ「資本主義以後の世界」が訪れることは確実であり、そのときには、否が応でも我々の価値観の転換が不可避になる。その中身がどのようなものになるのか、正直言って、あまりにも複雑な問いであり、正確に見通すことは難しい。しかし、世界経済の混迷ぶりを見るにつけ、我々はそろそろこの困難な問題に目を背けることなく、正面から立ち向かっていく覚悟が必要なのではないだろうか。」