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小保方論文問題のもう一つの見方

小保方論文問題は少し距離を置いてみると、「科学」の、現代と言う歴史におけ る価値観がどのようなものかが少し見えてきます。理研&マスコミの論調は、小 保方氏の”反論”に対して「研究開発の倫理性」という枠で「再現性」や「中立 性」或いは「客観性」などという”現代的言語的意味での論理性”を持った表現で否定的 な見方をしているようです。

 

さて、”人間の可能性の凄さ”は歴史をみれば、「常識」という凝り固まった価値 観の打破から進歩が生まれて来た、と言えます。ガリレオが地動説を唱えた時の ローマ教皇庁の審判は鮮烈なものであり、当時の感覚で言えば「天に唾する者」 でありその結果彼は無期懲役を言い渡されました。しかし、今では「地動説」は 当たり前であり、その地動説によりその後の科学の発達は目覚ましいものであっ たことは歴史的事実です。

 

もともと「研究開発」の領域は、国家或いは学会などという組織の所有物ではあ りません。そうではなくて、一人の人間の自由な発想の中での思い付きや疑問が その根源にあります。先述のガリレオに限らず、歴史における発見や発明の起源 というものは、組織ではなく個人の中から湧き出るものです。組織と言う個人を 離れた瞬間から、純粋な研究開発の動機は消え去り、組織の都合に合す”理屈” (組織の彼らはそれを”合理”と言う)が幅を利かすことになるのでしょう。また、研究者も当初は純粋な動機であったものが、「名誉」「虚栄」「保全」など という非合理的(そういう意味では人間的な!)な価値判断が優先する結果とな ります。今回の小保方論文問題を巡る「理研」「文科省」「学会」「研究”機 関”」などの反応を見ているとそのことが歴然と分かります。

 

フランスの近代思想家のルソーはその著書『学問芸術論』で、「学問、文学、芸 術は、政府や法律ほど専制的ではないが、恐らくいっそう強力に、人間を縛って いる鉄鎖を花輪で飾り、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情 を押し殺し、人間に隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人を作り上げ た。学問や芸術の復興は、習俗を純化するのに役立っただろうか、それとも習俗 を腐敗させるのに役立ったのだろうか」と学問・芸術への辛辣な疑問を投げかけ ています。

果たして科学という世界を絶対的に図る(ことができる)物差しというものはあるのでしょうか。

※<補記>

 

SF映画『未知との遭遇』は果たして夢物語なのか。しかし現代の量子力学の世界 はそれを妄想ではなく現実に近づけつつあります。東京大学の「量子テレポー ション」の実験の成功はその一端かも知れません。その量子力学の世界には、”観測者次第の結果”というものがあるようで、「再現性」はなかなか難しい(妥当性がない?)”基準”のように見受けられます。