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ルソーは友達

ルソーの『告白』第1部を読んだ。

ルソーとはあの「社会契約論」のジャン・ジャック・ルソーである。

それまで教科書的知識しかなかったルソーに対する興味が愕然とわいたのは、古書店でたった50円で買ったルソーの『人間不平等起源論』を読んだからである。自然人と近代人(ルソーの時代では“現代人”となるのだろう)を比較しながら、社会的差異の不平等を人間の根源的本質にまで掘り下げて書いている。そこに書かれてある一言一言が実感として胸を打つ。普通であれば、次は『社会契約論』へと読み進むのであろうが、このような思考を持つ(ことが出来る)人間とは一体どんな人物なのか、という別の興味が湧いてきた。

そこで目にしたのが、『告白』である。岩波文庫版でも上中下3巻ある長編である。いつもの古書サイトから福岡にある古書店で1,000円で売られていた筑摩書房版を早速購入読み始めたが、最初から驚愕である。良く言えば恋愛小説、悪く言えば官能小説ではないか!当然表現は18世紀であり、現在のポルノ氾濫時代の直接的表現はないが、紛うことなく女性遍歴をつづったものである。あの偉大な思想家だからという先入観もあったのかもしれないが、逆にとても身近に感じてしまい、長編ながらも寝る間も惜しむことなく読んでしまった。

自然人を求めたルソーらしく、第一巻の冒頭でこのように述べている。

「わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う、仕事をくわだてる。自分とおなじ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやりたい。そして、その人間というのは、わたしである。」

ルソーはデカルト的2元論をベースにしながらも理性より心情に優位を与えた。彼自身は自らの思想を体で体現し、そこからほとばしる感情或いは心性こそに人間存在の本質を見るのである。ルソーの凄さはその行動・体現力であろう。それは、当時の哲学者や神学者など貴族階級に属するものが体系的な教育と豊富な書物の中で各々の思想をはぐくんできたのではなく、ルソー自身は、当然貴族階級でもなく、全く独力であり、体系化されたものではないが、その探究心から網羅的に自らの思想を打ち立てたのである。『告白』の中でも自らのことを「衒学の徒」と揶揄しているが、人一倍自尊心の強いルソーの逆説的表現だろう。

ルソーはこのように言っている。

「哲学者たちは他人のために、おのれの才知をほこるために本をかくが、自分は悩んでいる自分を救うために本を書く」と。

すなわち、自らの心情・心性を媒介とした思想でない限り人は救えない、ということだろう。

『告白』はルソーが54歳~57歳まで4年をかけて執筆している。フランスの思想界の大御所となる人生の後半においての自らの存在を確かなものにするためにも書かなくてはならなかったのではないだろうか。

先述の冒頭でこうも述べている。

「・・・・永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりない人間を集めてください。私の告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹をたて、私のみじめさに足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、『わたしはこの男よりもいい人間だった』といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです」

ある意味自信満々の表現ではないか。現代風に言えば、「俺のようにお前らも自らをさらけ出して見ろ!」ということだろうか。

さて、その『告白』であるが、とにかく場面場面の心情をルソーらしく表現が豊かである。一部を紹介しよう。

 

“わたしの愚かしい野心は、ひたすら恋の冒険を通じて出世したいとねがっていた”(第3巻)

“すべての人の心をよく読みとることができるとしたら、上にのぼることを願う人間より下ることを願う人間のほうが多いだろう”(第3巻)

“その思い出だけでわたしの心に、混じりけのない逸楽がわく。私に勇気をふるい立たせ、老後の憂鬱に堪えさせるのに、こういう喜びが是非必要なのだ”(第4巻)

“手の接吻でおわったわたしの恋のなかには、少なくとも手の接吻ではじまるあなたがたの恋よりも、おそらくもっと多くの楽しさがあったのだ”(第4巻)

“上流の身分では・・・感情の仮面の下にいつも利害か虚栄心がものを言っているだけだ”(第4巻)

“わたしはどんなときでも女性の中に大きな慰めの力を見出していた”(第4巻)

“この人生でただ一つじつに快い感情があるとすれば、それはたがいに身をささげていると思うその感情なのである”(第4巻)

“いまは過去へとむかうわたしの想像力は、これらの楽しい追憶によって、永久に失われてしまった希望のうめあわせをしてくれるのだ”(第6巻)

 

まだまだ魅力あるルソーの言葉はつづくがこれくらいにしよう。

 

この本を読んでふと気づいたことがあった。非常に不遜な言い方になるが、「俺はルソーと似ている(或いはルソーは俺に似ている)」という気がしたのである。女性遍歴(ルソー程ではないが)もさることながら、その時々の心情心理が私にはよく理解できるのである。

300年以上も離れた人間同士で心が通じ合うという、この感情はいろいろな過去の人物の著書を読んでも感じなかった、というか気づかなかったものであるが、砕いていえば「(ルソーと)ダチ公」になったのである。

さて、『告白』はこれから第二部(第7巻~12巻)に入る。

前半で見た「女好き」のルソーがどのような経緯であの「人間不平等起源論」「社会契約論」を書くようになったのか、ルソーの人生行路を同じ目線と心情で一緒にたどってみたい。