言葉を武器にする

田中 希生という若手の論客がいる。

たまたまあるテーマの検索を行っている時に知った方だが、彼の「政治と文学、国家の安全保障」という小論文の中の「兵器と武器は違う」「今こそ言葉を武器にすべき」という表現に出会い、今までなかなか解答を得ることが出来ず悶々としていたことに少し光明を見た思いがした。

今の日本社会(もしかしたら全世界)における「どうみてもおかしい矛盾」に対して、「選挙」或いは「(静かな)デモ」くらいしか、また或いはFBやツイッターで自己満足的なグダグダを書き綴って満足するくらいしか対抗措置は無いのか、と言う自らの問いに対して自ら非常に誘惑的な方法論しか思い浮かんで来なかった。即ち、自分自身の精神的成長は45年前と全然変わっていないようで、「結局暴力しかないだろう!」ということであったが、今の社会がそう簡単に或いは短絡的な暴力手段を許すはずはなく、結果として悶々としていたのである。

田中氏は小論文の中で、「戦争において、決着をつけるのも、始めるのも、回避するのも、言葉の力である。ついに言葉は、最悪にもなり最善にもなりうる、《武器》である。それゆえ、言葉の力を知っている人間は、兵器による戦争に訴えなくても、戦いそして守る方法を、すでに知っている。」と述べ、文学者の奮起を促している。そこは私も単純に文学者だけにフォーカスして言葉の武器の使用を委ねる訳にはいかないが、しかし、「言葉の力」を本当の意味で知っているのは、やはり文学者であろう。少なくとも自然科学系の学者ではありえない。

だが、敢えて「敵」と言う表現をするが、我々の敵である政治家もまた、「言葉の力」を知るものである。

我が国においては、維新における廃刀令以降、「言論」という手段を戦闘的に使用し、時の政府に脅威をもたらし、また大戦後数多くの文学者が「平和」の獲得に対し「言葉の武器」を使用してきたという事実もある。

「言葉を武器にする」ことはそう簡単ではないだろう。当然平和主義者だけの特権ではなく、そうでない彼らもまた言葉を巧みに駆使してくるからだ。私を含め一市民が「言葉の力」を有効かつ最大限に使うことは限られている。しかし、FB等に代表されるインターネットの普及はある意味言論人の特権であった「言葉を武器」にする力を我々一般人にも開放してくれた。様々な無名の市民でありながら、論点鋭い、また胸を打つ表現にしばしば出会うのがその証左である。

しかし、あえて言えばやはり存在感のある文学者の言葉を待ち望む気持ちがあるのは事実である。

だが残念ながら今の日本の文壇における堕落或いは知的退廃は目を覆うばかりである。個人的には、辺見庸辺りに期待したいものだが、彼は震災以降、内面に籠ったようだ。村上春樹に果たしてそのような「言葉をカネ」ではなく「武器にする」力があるのだろうか。

逆に百田某のような輩が下手な武器を使用しながら「勝っている」のはため息が出る思いである。

やはり、「暴力」の誘惑はそんなに簡単には捨てきれないようだ。

さて、少し長いが田中氏の論文から引用する。

 

・・・・・<以下引用>

 

”戦争の危機を訴えることをすべて右翼の専売特許と考え、奇怪な楽観視のなかで米軍の庇護のもと平和主義を貫く怠慢が許されるわけがない。平和主義者こそ、唯一の武器である言葉を磨き、言葉を大切にするということができないなら、危機になにができるというのか。兵器と武器とが、根本的に異なる概念だということを、言葉の微妙な響きにこだわる文学者はよく知っている。日本が兵器という《武器》をもたないというのなら、言葉という《武器》によって、つまり文学によって戦う国にならなければならないということのはずだろう。なにゆえ兵器とともに武器の概念まで捨てねばならぬのか。粗略な議論のなかで兵器と武器とを混同して、言葉の力を浪費し、日々衰弱させ、いったい知識人は危機に際してなにをもって戦うつもりなのか。世界言語の完成の日まで、平和のため日本語によって戦うことはなにも矛盾しないのだ。”

 

・・・・・<引用終わり>