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【人間のモノ化】

科学の進歩発展が人間に幸福をもたらすと考えられたのは19世紀から20世紀にかけての時代だと思われるが、確かに人間は、少なくとも先進国においては快適な生活が実現され、また月へもロケットを飛ばした。

科学技術への信仰を背景に、資本主義陣営と共産主義陣営という20世紀の人類の二つの大きな理念がその正当性を争ったが、結果的に共産主義陣営の敗北で20世紀は終わった。双方の闘いは人類の絶滅を予想させる科学技術の争いにおける決着でもあったが、皮肉なことに、そこには勝者はいない。

経済学的観点からは「資本主義は絶えずフロンティアを探し求めなければ発展しない」と言われており、これはまた敗れた陣営からは「地球のあらゆるものを食い尽くすのが資本主義である」という言説が言われた。

勝ち残った”資本主義陣営”はこれからフロンティア(食い尽くす対象)を一体どこへ求めるのか。

大戦が結果として科学技術を飛躍させ、一時期宇宙へのフロンティア拡大に希望が託された時期もあったが軍事戦略的な意図からその市場的発展は阻害された。そして21世紀に入り、資本主義の延命策としての古臭い手法が2001年9月11日に採られた。しかし、その手法は皮肉にも「双方敗北」という前世紀の理念の闘いの時の矛盾を解決できずにいる。

このような資本主義の延命をめぐる大きなコンテクストの中で、資本主義必須原理のフロンティアの対象が20世紀の「宇宙」ではなく「人間」そのものに向けられてきているのが21世紀ではないか。今や”既存の神”をしのぐ勢いの「健康・安全宗教」の中で、日々殺戮と災害或いは環境破壊による命の喪失をただその”数”だけの問題として受け取り、その日常化に対して、なんとか防御しようと個人が一生懸命自らの命の保障を求める行動を取っている。そしてそこには、「国民の命を守る」という政治言説とともに「先端高度医療」「豊富な保険」などのあらたな”商品”が待ち受けている。

資本主義が「人間」そのものを市場対象にしてきたことは、「雇用の流動化」という作為的表現の中で行われてきた「派遣業」にその発端をみることができる。感情・感性を持ち、思考し、生きるという自己目的性の実現を目指す存在としての人間ではなく、自らの動物的生命の維持だけを目的とせざるを得ない階層が出現する一方、贅を尽くし、饗に走り、表層的芸術を精神性と勘違いする有閑階級が存在することを『人間不平等起源論』に求めることも容易ではあるが、今世紀における不平等はルソーの時代とはその質そのもが変わってきていると思える。

先日、タイ国における代理出産問題があったが、それに関連し、24歳の日本人が代理出産で1000人の子供をつくる計画があったという。某上場IT企業の御曹司でもあるこの青年は『世界のために私ができる最善のことは、たくさん子どもを残すこと』と言っている。

代理出産」や「臓器提供」が資本主義的に実現されるということは、そこには需要と供給があるからであり、文字通り”生殖ビジネス”としての「代理出産市場」が出現している(※インドにおける代理出産の市場規模は2015年に60億ドルと推計されている)

片方に命を買う人間があり片方に命を売る人間がいるということである。

確かにこのような流れに対して倫理・道徳的視点からの反論も見受けられる。人間と人間の間での直接的な命のやり取りが露骨なことも一因である。しかし、このように反論でも、人間の臓器を機械的なもので代替する(人工心臓など)ことには余り抵抗が無いように見受けられる。

マーケティング或いは政治的人心掌握術の一つに、最初に極端なものを見せ敢えてそれに反感を持たせることにより、次に少しだけ当初の案を和らげた案を出す、という古典的手法があるが、人間を徐々に徐々に「モノ」として認識させようとする流れと見ることができるのではないか。

このような流れの中で出てくる生命科学と呼ばれるものに対する根源的な嫌悪感が私にはある。