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三島由紀夫『文化防衛論』再読、雑考

三島由紀夫の『文化防衛論』を再読した。初めて読んだのは高3の三島自決1年前だから、45年振りの読み返しとなる。本書を読んだわずか1年後に三島があのようなことを”起す”とは思いも知らず、当時左翼少年だった私は当然ではあるが知的レベルは三島より相当低いにもかかわらず、難解な文章に挑んだものだ。当然のことながらその理解度は17歳のその程度でしかなく、そのまま本書とは半世紀近い距離を置いていたことになる。その間、私的人生の様々な有為転変にも関わらず本書を含む数冊の本は私の人生とともにあったことは偶然であろうが一種の縁を感じさせる。たまたま台風による恩恵でできた読書タイムに本書を選んだのはそれほど意味はないが、当時本書の購入動機でもあったタイトルの硬派な表現にまた魅かれたのかもしれない。『文化防衛論』は70年安保前の混乱期に三島が書いた論文であるが、政治オンリーの季節に敢えて天皇を文化論的視座に置きそこから逆照射される政治の近代性を批判したものである。論文と言うことからやはりその主張は理路整然としている。とはいえ、その主張に全面的に同意する訳にはいかないが、それでも各所に記述される”論”は今でも一考に値する。否、今だからこそ逆にその”理”が見事に当てはまる。

 

■文化主義と逆文化主義より

・『フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術はいかに陰惨な題材を扱おうともその断片化自体によって救われてプラザの噴水に  なってしまう。全体的人間の悲惨はフラグメントの加算からは証明されないからである。われわれは単なるフラグメントだと思って我々自身に安  心する』

・『我々が「文化を守る」と言う時に想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との二つである。その二つは融合され、安  全に化合している』

■何に対して文化を守るか

・『文化主義は守られる対象に重点を置いて、守られる対象の特性に従て、守る行為を規定しようとし、そこに合法性の根拠を求める。平和を守る  にはこれを平和的に守り、文化を守るにはこれを文化的に守り、言論を守るには言論を以て守るほかはないとするところに、合法性を見出すので  あるから、暴力を以て守るものは暴力に他ならないことになり、暴力の効用を観念的に限定し、ついには暴力の無効性を主張することになるのは  論理的必然である

戦後民主主義の4段階

・『従って異民族問題をことさら政治的に追及するような戦術は、作られた緊張の匂いがするのみならず、国を現実の政治権力の権力機構と同一化   し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買弁政権と規定することに熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力める』

■文化の全体性と全体主義

・『言論の自由が文化の創造的伝統的性格とヒエラルヒーを失わせ、文化の全体性の平面のみを支持して、全体性の立体性を失わせる欠点があるけ  れども、相対的にはこれ以上よいものは見当たらず、これ以上、相手方に対する思想的寛容という精神的優越性を保たせるものはない。かくて言  論の自由は文化の全体性を支える技術的要件であるとともに、政治的要件である

・『文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない政治体制に他ならない

 

平和論についてはその防衛手段としての暴力を肯定するのか否定するのか、今でも私個人的には答えは出ていないが、悩ましい問題ではある。また、言論の自由に対する三島の論は非常に明確であり、さすが言論人ではある。彼がこのように暴力と言論(の効用)について、そのパラドクスを文化を行動主義的に捉えることで解消していったのであれば、やはり自決は個人的な論理の帰結であったのだろうか。

 

いずれにしても三島が死して44年目の11月25日が間近であることをふと思い出した。