「心情の論理」と「結果の論理」-東京都知事選考

表題の「心情の論理」と「結果の論理」とは、経済学者であり歴史社会学者でもある大塚久雄が『信仰の論理と世俗の論理』というテーマのある講演(1976年)の中で述べた言葉である。大塚はこの言葉について、「建前の背後に隠されてしまっている真の問題をはっきり見抜くにはどうしたらよいか」という主旨でこの言葉を語っているが、大塚によれば「信仰の論理」とは「良き心情、動機の純粋を重んじる論理」であり、一方、「世俗の論理」とは「良き結果を重んじる論理」である。これを「心情の論理」と「結果の論理」と言い換えている。そして、この二つの論理は密接な関係にあり、「心情の論理」からは自然に「結果の論理」にたどり着くとして、医者の患者に対する処方を例にとり、「結果の論理」自体については決して悪いものではない、と述べたうえで、しかし「結果の論理」の「一人走り」こそ注意しなければならない、と言っている。どういうことかと言えば、「良い結果」を得るためには様々な手段を検討し最も効果的な方法を選び出す。すなわちそれは手段の選択の如何によって結果がまるで違うものになるからである。そこで、とにかく「良い結果」をもたらそうと必死になることに思考が集中する結果、「心情の論理」と「結果の論理」が分離し、「結果の論理」が独走するきっかけが生まれる。そして、「結果の論理」が突き進んでいくと、むしろ「心情の論理」は「結果の論理」にとって邪魔者にさえなる。しかも、「結果の論理」は「心情の論理」から“解放”されると却ってますます大きな力を発揮するようになる。なぜならば、「心情的にはたとえ不道徳な手段であっても遠慮会釈なく採用できる」からである、と言うのである。このことを「政治とは悪魔と手を握ることである」という言葉を引き合いに出して、「結果の論理」の独走の危険性を述べている。なるほど、このような論理は、たとえその時はよくても結果としてこの論理に加わった者同士の間で不信感が拡がっていくのだろう。政党の合従連衡の状況をみればよく分かる。また我々の日常においても、このような「結果重視」による弊害はよくあるのではないだろうか。大塚は、このような説明のあとに「結果の論理は解体の論理であり破壊の論理である」と喝破し、そして、「結果の論理は心情の論理の土台の上に立ってこそ成立する」と述べている。

さて、迷走する都知事選における“脱原発分裂騒動”に対する実に示唆に富んだ言葉ではないだろうか。「宇都宮の主張も人柄も問題はない。細川-小泉は(多少いろいろ)問題であるが、しかし、宇都宮では勝てない。とにかく勝つためには宇都宮は(立候補を)降りるべきだ」というのが「細川一本化」を表明している方々に大体共通している主張の様だが、これこそ大塚の言う「結果の論理」優先の思考ではないか。ちなみに、昨日の沖縄名護市長選挙の経緯と結果をみていると、これこそ「心情の論理の土台」をしっかりと作った「結果の論理」ではないだろうか。