『よき未来、よきつながり、よき人生』

戦後民主主義の導入により、ある意味根こそぎ無くなったものに「村落共同体」 というものがあります。戦前のファシズム或いは天皇制の維持に「村落共同体」 の持つ機能が役立った、という理由からのものと思われますが、その後経済成長 とともに、そのような伝統的・家父長的な性格は、効率化を目指す産業政策に とっては逆にマイナス要因であることから、経済的意味合いからも「村落共同 体」は解体されていきました。確かに、道路や通信のインフラは日本中に行きわ たり、そのおかげで物質的豊かさも享受できたのは事実です。

しかし、今日、政治・経済の行き詰まりの結果として都市と地方の格差や或い は限界集落と呼ばれる地域の衰退などが拡大してきている中で、新たに「共同体」という考えが徐々に見直されて来ています。人間の持つ本能的な危機意識が そのような志向と思考をもたらすのかもしれません。「共同体」とは英語では 「コミュニティ」とも言いますが、表面的な便利さや豊かさの陰で失っていくものに「人と人のつながり」があるように思えます。

戦後の民主主義は「個人の自由と権利」を私たちに教えてくれ、それは素晴ら しいものだと今でも思います。しかし、その自由と引き換えに失ったものが「つながり」であったとすれば、私たちが得た「自由」とは単に「ワガママ」でしか なかったのではないか、と思われて仕方がありません。「経済の発展」が言葉を変えれば「金がすべてを解決する」という観念になり、その金が回らなくなった 途端に世の中では、「ワガママ」がまかり通っているように思われます。そのような時に「共同体」という考えが出て来ていることに少し安堵しています。ただし、現在の「共同体」への志向は現状からの逃避的性格も結構強いような気もします。

最近、『今だけ、金だけ、自分だけ』という言葉が流行って(?)いるようですが、まさに現実を言いあてて妙な表現です。この言葉から逆説的に学ぶとすれ ば、下手な解釈ですが、『よき未来のため、よきつながりのため、よき人生のた め』ということになるのかもしれません。この解釈を実践できる場としての逃避 的志向ではない新しい「共同体」というものを少し考えてみたい年です。