鴨長明と東日本大震災

古くからの友人から、今朝ほど「方丈記を<全文>読め!」というメールをもらいました。

方丈記」は私の生き方の指針の一つでもあったので、改めて目を通しました。

皆さんも、序文の「ゆく川の流れは絶えずして・・・・・」はよくご存知のことでしょう。

方丈記はこの序文も含め、10の章から構成されています。

さて、その6番目に「元暦(げんりゃく)の大地震」という章があります。

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★<原文>

「また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。

・・・・・・・略・・・・・・・・・・・

四大種(しだいしゅ)の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りて

は、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭

(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶(なお)この度には如か

ず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。」(2011.3)

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★<現代語訳>

「また、同じころだったか、ものすごい大地震があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。

・・・・・・・略・・・・・・・・・・・

四大種(地・水・火・風)の中で、水と火と風は常に害をなすものだが、大地の場合はふつうには異変を起こさない。昔、斉衡のころとかに、大地震が起きて、東大寺の大仏のお首が落ちたりして大変だったらしいが、それでもやはり今度の地震には及ばないとか。その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。」

 

 

いかがでしょう!?

特に最後の「すなはち、人皆あぢきなき事・・・・言葉にかけていひ出づる人だになし。」は示唆に富んでいませんか!

 鴨長明(1155~1216)は京都(下)賀茂神社宮司の子として生まれ、50歳で出家晩年に方丈記を記しています。

彼の生きた時代は、平清盛の死をはさむ平安末期から鎌倉時代にかけてです。平家と源氏の壮絶な戦いがあり、貴族政治から武家政治へと移る、いわば国情不安定で古い時代と新しい時代の境目に、「大火」「大風」「飢饉」「社会不安」などとともに「大地震」の経験をベースに、世の移ろいを彼なりの視点<無常>からみたものだと思われます。

 今回の大震災も少し歴史をさかのぼる観点からみれば、時代背景が良く似ているように私は感じますが、みなさんは如何でしょうか。

また、この章を読んだ後にもう一度序文を読み返すと、「なるほど!」という思

いになります・・・。

 方丈記から800年後の今回の大震災は日本歴史上でも稀有な大地震ですが、毎日毎日のテレビやネットの情報から少し身をおき、頭を”冷却”して鴨長明方丈記を読んでみませんか!

 

【追記】

震災は、まだ本格的な復旧・復興にはほど遠く、加えて福島第一原発の先の見えない状況が続いています。このような時に上記のような記述はいささか抵抗を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、あえて、人間のより根本的、本質的な所から今回の震災を見つめ、向き合うことも大事ではないかと思います。