マックス・ヴェーバーと安倍晋三

今から4年前の2014年1月29日、衆議院本会議代表質問において、安倍晋三氏は「・・・・政治家として行動によりもたらされる結果に責任を持つべきは当然であります。信念だけに任せて、結果を考えることなく、決断を行うようなことがあってはなりません。一方で、政治家として信念がないままに、ただ結果だけを案ずるのは妥協的な事なかれ政治に陥りかねません。今後とも私はマックス・ヴェーバーが『職業としての政治』の中で最後に説いたように情熱と判断力の2つを駆使して、どんな事態に直面しても断じてくじけない政治家でありたいと考えております。」と述べています。これは、江田憲司議員が、安倍晋三氏にマックス・ヴェーバーが『職業としての政治』で展開した「信条倫理と責任倫理」についての見識を問うた時に答えたものです。安倍晋三氏はマックス・ヴェーバーが好きらしく、たびたび彼の著書(『職業としての政治』)からの引用が見られますが、上記の答弁は安倍晋三氏なりのヴェーバー解釈として捉えても良いでしょう。彼の著書の該当部では、「信条倫理」と「責任倫理」は「対立するもの」として捉えられているのですが、安倍氏は「対立するものではない」として、「信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出す”と述べております”」とまで言い切っていますが、著書の中ではそのようには述べていず、彼の勝手な解釈(改ざん(笑))です。それはともかくも、ある種の政治家(特に保守政治家)は、マックス・ヴェーバーの文言或いは著書引用をしばしば使用していますが、私が思うには、彼の著書(『職業としての政治』)の落とし穴は、「読むほうが勝手な解釈が出来る」ところにあるようです。この著書が書かれた時代は、第1次世界大戦にドイツが敗戦した直後で、議会は相当な混乱を呈している時であったようで、この著書はその当時、マックス・ヴェーバーが学生相手に講演した講義録として残っているものです。それゆえ、本著書の解釈は文脈等からマックス・ヴェーバー自身の根本的意図の捉え方が結構難しくなっています。ただ、いくつかの点で今回の森友問題をめぐる「政治家と官僚」の在り方ついて、目を引く記述も存在しています。一つは、≪政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる、瑣末で、あまりにも人間くさい「敵」と闘い続けねばならない。その敵とは「虚栄心」である。虚栄心は、すべての仕事への献身の、そしてすべての距離の不倶戴天の敵となる。≫と政治家の資質として必要なことを述べています。また、官僚に対する記述では、「政治家と官僚の違い」という個所において、≪真の官僚は、職業として政治活動に従事すべきではないのであり、…倫理的には最高の官僚の特性も政治家としては劣悪なものであり・・・その意味では倫理的に最高の官僚は倫理的に最低の政治家になるのです≫と、官僚と政治家の真逆の対照的資質を述べています。現在の日本において、森友問題を巡るまさに「政治家と官僚」の在り方が問われているのですが、マックス・ヴェーバーがもし生存しているとすれば、彼をある意味標榜している安倍晋三と言う「政治家」についてどのように評論するか、と考えると非常に興味を覚えます。

せごどん(大河ドラマ『西郷どん』)

私的なことで恐縮です。過日、家人とともに二人の故郷でもある鹿児島へ墓参帰郷してきました。一緒に帰省するのは15年振りとなります。3泊4日のちょっとした小旅行でしたが、墓参という義理的旅行とはいえ、やはり心は躍るものです。鹿児島空港に到着するやいなや、ある種の予感はありましたが、かの地は大河ドラマ「西郷どん」一色で、お土産パッケージも同じく右倣えよろしく、相変わらずも薩摩らしい”てげてげ”(薩摩弁:”適当な”の意)ぶりが何とも心地よい滞在ではありました。西郷生誕地の甲突川(こうつきかわ)河畔は綺麗に観光化されており、幼少時や学生の頃の面影は全くなくなっていたのが何とも残念でしたが、これも時の流れなのでしょう。

 さて、当地の方々と話していると、今回の大河ドラマについては、賛否両論があるようです。「維新」と「西郷」と聞けば、おなじみ司馬遼太郎的というか、政変劇、革命劇としてのどちらかといえば男性的な話が定番ですが、今回の大河ドラマの原作者である林真理子氏は当初から「西郷隆盛をめぐる女性の物語(にする)」と公言していました。また彼女の原作には、以前同じ大河ドラマ篤姫』の脚本を担当した中園ミホ氏が同じく脚本家として加わり、二大”女傑”文芸家による、まさに「女目線」からの「西郷隆盛」となったことが、当地の西郷信奉者にとっても「理解困難(笑)」なものとなっているようです。確かに西郷は3度結婚している(×2)のは事実であり、巷間「女に甘い、女好き」という評判も無かった訳ではありません。また、3度の結婚の2番目の奄美大島の愛加那さんとの間に出来た子どもを「菊次郎(1860年)」と名付けたこと、3度目の結婚で生まれた子供に「寅太郎(1866年)」と名付けたことから、「愛加那は本妻ではなく愛人だった」「女性蔑視」などという見方もあります。また、真偽はわかりませんが、林真理子氏の原作によれば、京都においても西郷さんは良くモテたようで、祇園の芸者、或いは料理屋の仲居などとも”親しかった”ようです。ちなみに、この仲居さんは「豚姫(篤姫ではありません)」というニックネームがあったようで、どちらかと言えばふくよかタイプが西郷さんの好みだった(笑)ようです。最初の結婚に失敗した時に「一生不犯(一生を通して異性と交わらないこと)」とつぶやいたそうですが、その志がすぐ折れてしまった西郷さん!(笑)江戸城明渡や戊辰戦争西南戦争などのイメージからすれば全く想像できない一面ですが、「女好き、女たらし」というのではなく、女性の方がほっとくことが出来ないような存在だったのでしょう。ある意味では、だからこそ彼に交わる男どもも「(彼を)ほっとくことが出来ない」と思うほどのいわば「人間たらし」だったのでしょう。西郷の座右の銘の『敬天愛人』という言葉に含まれる意味として西郷の女性関係を考えれば納得いく西郷像ともいえます。

 大河ドラマはまだ始まったばかりでどちらかと言えば視聴率が結構低いようですが、西郷像への戸惑いがその結果に表れているのかもしれません。林真理子氏と中園ミホ氏がこれからどのような「西郷隆盛像」を描いていくのか、暫しあらたな視点から注視してみたいと思います。

 

<DAIGOエコロジー村通信2018年3月号より>

「超近代的個人主義」の胚胎と台頭

世界の不安定を政治或いは経済的視点から見る論考は嫌と言うほどあふれかえっていますが、少し角度を変えて「個人主義」という観点から眺めるとなかなか面白い分析が出来そうです。そもそも「個人主義」という考えがそれなりに体系化されたのはやはりフランス革命前後がその起源となり、いわゆる「近代個人主義」と呼ばれています。その「近代個人主義」が人権思想や平等思想を生み、そこから”近代”民主主義が生まれましたが、民主主義を政治的視点とすると経済的視点からは、個人主義自由主義が結びついた資本主義も生まれて来たと言えます。もう少し言えば、この個人主義を捨象・揚棄したものが共産主義社会主義)かもしれません。しかし、いずれにせよ、現代社会を思想的に貫徹している(と思われる)民主主義と資本主義の生みの親は「”近代”個人主義」ということが出来そうです。この思想を現実的に体現しているのが、何を言おう「アメリカ合衆国」です。第二次大戦以降、冷戦勝利を経て、まさに「我が世の春」を謳歌し、フランシス・フクヤマに『歴史の終わり』という著作を書かせたアメリカが今まさに世界の矛盾と不合理・非条理な存在の中心となっていることは、論を待たない事実でしょう。「近代個人主義」が掲げた理想の自由と平等が、貧富の格差の拡大と封建的身分制度の再来のような特権階級を生んでいる事実は、非常に皮肉なものです。「それは個人主義と利己主義を間違えたものであり、本来の個人主義とは違う」という意見が聞こえて来そうですが、確かにその通りだと思います。が、ことはそれほど論理形式上の問題ではなく、現実的に「貨幣」というものが介在する限りは、「個人主義」は「利己主義」にならざるを得ないのではないだろうか、というのが私の感想です。本論において突然飛び出した「貨幣」ですが、「私的所有」を絶対視する「個人主義」がある限り、「貨幣の私的所有」が他者との相互依存において、本来なら「個人」の従属物であるはずの「貨幣」が人間を従属させるという逆転が生まれてしまったのではないか。マクス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』によれば、神との間の教会という共同性を否定し直接神に対置する人間をおいたプロテスタンティズムは強烈な「個人意識」を生んでいきます。そのことからも「個人主義」と「貨幣」にはある種の親和性があるのかもしれません。資本主義の矛盾をはからずも露呈している現代社会は同様に民主主義の矛盾も表出させました。この矛盾からの脱却に、単純にグローバリズム的思考そして志向は意味が無いように思えます。先日の暗号通貨流出問題に人間歴史的課題がもし含まれるとすれば、社会を構成する一人一人の我々の内面を含む「超近代的個人主義」が生まれつつあるのかもしれません。

<補論>

個人主義」の矛盾についてはルソーの社会契約論あたりから「個」と「全体」の関係として「個」を相対化していく努力が図られています。夏目漱石は『私の個人主義』において「自由と義務」「自由と道徳」を論じたうえで「自我本意」という心境にたどり着いたことを述べていますが、そのような一人一人の「自我本意」が「共同」に結びつける思考に非常に近い技術として、暗号通貨流出問題でクローズアップされた「ブロックチェーン」をみることができるのではないか、という仮説を立てているところです。

 

<低炭素都市ニュース&レポート2月号より>

聖書と炭火

時々我が家に若いキリスト教伝道者が訪ねて来るようになり6年以上になるでしょうか。宗教勧誘も押し売りと同じような感覚を少々持つのですが、彼が初めて我が家を訪れた時、暇にしていたこともあったのか、またその頃たまたま読んでいた本の中のキリスト教に関する記述に興味を魅かれたこともあったのか、彼と2時間ほどお茶を飲みながら話しました。それ以来、彼はときたま私を訪ねるようになり、また私も「良い話し相手(いい暇つぶし?)」が出来たので、拒絶することなくキリスト教神学とでもいうべき議論をこれまで継続しています。さて、その彼が、先日、「川口さん、聖書にも炭のことは書かれています」と嬉しそうに訪ねて来ました。私が「炭焼活動」をしていることは以前話したこともあるので、彼としては私を入信させるいい材料が見つかった、という思いもあったのでしょう。それはさておき、それまで「炭」と「聖書(キリスト教)」の関連なんて想像だにしなかったのですが、彼が教えてくれた情報はなかなか興味深いものでした。それは、新約聖書「ローマ人(信徒)への手紙12章20節」には、こう書いてありました。

「・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ロマ書12-20)

彼には、「炭は空気や水を浄化する力があるんだよ」ということは、時折話していましたが、彼の解釈では、「汝の敵を愛せ、という教えと重なるところであり、”炭火”はその熱で不純物を取り除くということ」らしい。「炭火を頭に」という表現は古代エジプトで罪人にたいしてその罪を悔い改める方法として、真っ赤に燃えた炭火を入れた鍋を頭に乗せたという話があるようです。その情景を想像しただけでもちょっと身震いしますが、「火の浄化」という意味で捉えると納得できるものがあります。そうであれば別に炭火でなくても他の火でも良いではないか、という疑問も湧いてきますが、炭焼活動をやっている私としては、ここは「やはり炭火でないとだめなんだ!」という説得力が欲しいところです。

そこで「他に聖書で炭のことを記述している項目はないの?」と聞いたところ、「待ってました!」とばかりに彼は二つ目の例を持ち出しました。それは、旧約聖書イザヤ書6章6-7節」です。こう書いてあります。

「6:この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7:わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 」(イザヤ書6:6-7)預言者イザヤが神の前で自らの罪を示した時に、神の使いのセラピムは炭火をイザヤのくちびるに当てることによりイザヤの罪は無くなった、ということでしょうか。

 聖書時代においては「炭火」は金属精錬・冶金にとって必要不可欠なものであり、また物質を他の物質に変えるという性質は、人間の精神にも当てはめることができる、と当時の人は考えたのかも知れません。世紀が変わり、「炭」は「火(炎)」ばかりではなく、燃やさずとも「炭」そのものにも「変化(浄化)させる」力があることを私たちは知りました。若いキリスト教徒に対して、私は「2000年以上を隔てても、「炭」を通じての人間の在り方、或いは社会の在り方を問うことが出来るという共時性或いは通時性を感じたよ」と彼に感想を述べましたが、彼はますます私を回心させようと勢いづいたかな、と思うとちょっと複雑な気分です。

 

<DAIGOエコロジー村通信2018年2月号より>

【共同体と個との関係考察】


基本的には、人間は社会的動物ですから、否が応でも群れないと生きて行けない存在です。
一つの仮説として、共同体(群れ)の「規模」と「個」の関係は反比例のような気がします。

「群れ(の規模)」×「個(の自由度)」=一定

群れの規模を国家や世界という見方をすればするほど個の自由度は小さくなり、規模が家族やご近所、集落などでみれば、その自由度は大きくなる、という関係でしょうか!
そういう意味では、「グローバル時代」は個が大きく疎外される時代とも言えます。
しかし、この考え方はあくまでも相対的且つ”量的”視点であり、「個」にとって「なぜ生きている(存在している)のか?」という問いかけは永遠に解けない命題ではないかと思います。
古代から中世にかけての宗教、近代の資本主義(或いは共産主義)もその回答をとりあえず出してきた訳ですが、なかなか正解に程遠い、という状況でしょうか。
こういうときは、お酒を飲み、大いに笑い、自分を解放すれば(これが難しいのですが・・)何とか正解に近いモノが得られるのではないかと考えながら、日々を過ごしています。

明治維新150年に思うこと①

今年は明治維新150年である。1年かけて継続できるかどうかわからないが、自分なりの維新観とその総括を行いたいと思う。今回はその第1回めだ。

“維新”の実態とは未だにわからず仕舞いでここまで来たわが日本である。私は鹿児島生まれで、幼少時からの薩摩教育から明治維新以降の日本を“薩摩史観”で見てきた。しかるに、150年を経た今、「歴史に学ぶ」と言う姿勢に異論はないだろう。であれば、敢えて近代合理主義的弁証法で歴史を振り返ることも問題はないだろう。簡単な話が、人生65年の間、無意識の世界で脈々と流れている“薩摩史観”をまずは否定した上でアウフヘーベするという手法を取ることにした。

 “維新”以降の日本の「国体」を決定づけたのはいわゆる薩長同盟による談合支配である。しかるにその実態は、薩長同盟と言いながら、ほとんど長州による支配が文字通り今まで続いているのである。薩摩は西郷隆盛西南戦争で“維新”のエネルギーをほとんど費やしてしまった。長州から見れば、「うまくやった」という心境だったのではないか。しかし、ことはそう単純ではない。長州と結託した大久保利通という人物がいる。鹿児島(薩摩)においては、大久保は未だに「裏切り者」である。だがしかし、大久保の深謀遠慮を薩摩の人間は今一度見ないといけない。なぜ大久保が紀尾井坂で暗殺されたのか。首謀者は石川県士族の島田一郎ら6名により惨殺されたということになっているが、その石川士族をけしかけたのは長州にほかならない、と私は思う。単に征韓論の仲たがいが原因のように触れ回るのは、長州の謀略である。残念ながら、確かに鹿児島(薩摩)においても、西郷と大久保の関係をこのような表象的な見方でみていることは、鹿児島人のなんとも情けないことである。人間死ぬ時は、自ら命を絶つか、或いは自ら以外で命を絶つか、の二通りしかない。自ら命を絶つことはそうでない輩と比べるとほんのわずかなものだろう。「生きることに執着する」ということは、言葉を変えれば「たとえ友を裏切ろうと自分だけが生きていれば良い」という思考だ。しかし、いくら「生」に執着しようと生物である限り、その命は有限なものだ。その有限性に執着してさえ、他人から命を奪われるということがある。「暗殺(テロ)」がそれだ。私は暗殺された歴史上の人物を全て肯定する立場だ。自ら命を絶つことと、「暗殺」は殆ど同義語と言ってよい。西郷は自ら命を絶ち、そして大久保は暗殺された。“維新”の立役者の両名がいなくなった後は、まさに長州の天下である。どうでもよい伊藤博文などがさも大人物のように振る舞えるのも、西郷・大久保がいなくなったからではないか!その後の明治政府の行く末は、第二次大戦(太平洋戦争)での敗北に至るまで、すべて長州の恣意的政治が成せる業だ。今の安倍晋三を見れば一瞭然ではないか!繰り返しになるが、薩摩は西南戦争で革命精神を全て失ってしまった。革命精神を失ったあと、西郷・大久保に付き従った、大山巌東郷平八郎黒田清隆五代友厚、村橋久也(サッポロビール創始者)、森有礼牧野伸顕(大久保次男)、西郷従道(西郷弟)、、、、、、とにかく数え上げればきりがないが、これらの輩は革命精神を失った連中である。ちなみにあの品の無い麻生太郎牧野伸顕の長女(雪子・吉田茂の妻)の孫(大久保のひ孫)である。太平洋戦争(大東亜戦争)での敗北も長州(陸軍)がヘゲモニーを握ったからであることは明白だ。(薩摩は「海軍」を握った)

 ここまでは、一方的に長州を攻めたが、安倍晋三のいい加減さをみるからこそ、長州を非難する訳であり、“維新”そのものを成し遂げた功績は素直に評価しないといけないだろう。私が思うに、“維新”はすべて偶然の賜物であったと思う。薩長とも、目指したものは「公武合体」であり、やはり武家社会の継続をねらっていたのである。しかし、いわゆる世界帝国主義列強による外圧は、その目標とした「公武合体」を飛び越え、あっと言う間に「脱亜入欧」というイデオロギーに変換してしまった。言葉を変えれば「狂気の沙汰」なのである。ブレーキが利かなくなった長州は、吉田松陰高杉晋作と言う狂気を生んだ。長州の狂気はある意味革命的である。それに比して。薩摩に足りないものはまさに「狂気」だ。西郷も大久保も「狂気」とは縁遠い。だがしかし、そもそも西郷・大久保を輩出した薩摩(鹿児島)は、個人的には狂気は見えずとも、集団的狂気はあるように思える。個人的狂気(長州)に対する集団的狂気(薩摩)だ。今の日本は安倍晋三という個人的狂気が跋扈している。個人的狂気もそこに発展性があれば、それは大きな渦となり、世界を社会を状況を根本的に変え得る力となるが、安倍晋三の狂気はまさに発展性のない狂気にすぎない。広い日本であるが、今の世界が陥っている混沌(カオス)を打ち破るには「狂気」が必要だ。D.トランプも「狂気」を持った人間だ。但し、安倍晋三と同じ発展性のない個人的狂気か、或いは世界を変え得る「狂気」となるか、見ものである。

 さて、話をもとに戻そう。私が言いたいのは、西郷・大久保が意識的にせよ、無意識にせよ、二人の間にある「あうん」というものを今一度見直せ、ということである。それは、先述した「自ら死ぬ者」と「他から殺される者」の暗黙の了解に基づく意志一致を自らのものとし、自らが「自ら命をたつものなのか」或いは「他から殺されるものなのか」の見極めをやることだ。民主主義とは便利なものである。自らを安全な場において、何をしゃべろうが口舌の輩であろうが許される。否、どころか評価される。己の存在を賭けるという厳しさ、だがしかし、そこにこそ「狂気」とそして人間存在の「真理」がある。今一度、世界に目を向ければ、狂気にまみれた人間ばかりであるが、金正恩の狂気とトランプの狂気、安倍晋三の狂気を敢えて比すと、発展性(革命的)のある狂気は金正恩であろう。狂気とは理屈ではない。狂気比べを行った場合、そこに時代の歴史の突破者を感じるとすれば、金正恩に勝るものはいないだろう。だが残念ながら、多くの人間は「自ら命を絶つ」ことも無ければ、「他から殺される」こともほとんどないだろう。

※本論は歴史的事実から、私個人が、維新から現在に至る様々な事象について、勝手気ままに思ったことの叙述であり、議論すべきものではない。ただ、少しでも同意が得られるのであれば、個人的には嬉しいことである。

私の今年のテーマ

2018年新年あけましておめでとうございます。

人間にとって年が変わるとは、物理的には単なる天体の日常的変化の継続の一断面に過ぎませんが、心情的にはかなり段差或いは差異のある“できごと”です。そこには、意識するかしないかに関わらずある種の「存在論」があるような気がします。数年前から「AI」が社会的に認知されるようになりましたが、昨年は囲碁や将棋等における「AI対人間」が、或いは「(AIに)奪われる仕事」なども話題となりました。そういう意味では、一つのテクノロジーという範疇を越えて、「社会基盤的」「人間存在基盤的」な領域にまで流出してきているように思われます。ところで、自らのアンドロイドを創作しながらロボット研究を続ける大阪大学石黒浩教授に私は非常に興味を覚える一人です。彼の研究の動機は、「「人間」と「人間でないもの」の間を考えている」ということですが、彼は言います。「最終的には人間は無機物になる」と。この言葉を聞いた時に私は戦慄と同時に奇妙な納得感も覚えました。しかし、それはまさに一瞬の感覚であり、続いて私の理性・悟性そして心情は、彼の言葉を反芻しながら、それを「否定せねばならない」という強い思いに駆られました。また石黒教授との直接的接点があるのかどうかわかりませんが、数年前に米国の「AI」研究者のレイ・カーツワイルは、2045年をシンギュラリティ(特異点)として「私たちホモサピエンスは形を変える。何か新しいもっと良いものになる。」と言い、現在グーグルで研究を続けています。さて、私たちがテーマとしている「低炭素社会」の概念についてはこれまでもさまざまな議論を行っていますが、「CO2による地球温暖化問題」に集約還元され、モノゴトの本質を見ていないような気もしていました。とはいえ、「では本質とは何か」と問えばそれに対する思考は空回りを続けるのがオチでした。言葉遊びではありませんが、「低炭素社会」とは字義どおりに考えれば「炭素が少ない社会」ということになります。ところで炭素は有機物には欠かせない物質ですが、その炭素をなるべく抑える社会とは、まさに石黒教授が言う「人間は最終的に無機物となる」という主張を肯定しなくてはならない立場となってしまいます。論がかなり飛んでしまいましたが、私の今年のテーマは、繰り返せば「人間は無機物ではない、永久に有機物として存在すべきだ」という主張を行うことであり、その論考を納得できるまで続けていきたいと思っています。言葉を変えれば石黒浩教授を“論破”することであり、彼が言う「「人間」と「人間でないもの」の間」について私のなりの論を構築することです。そしてその延長に、「低炭素社会」について有機物という視点切り口からの概念を打ち立てることです。

ながながととりとめもなくしゃべってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願いします。

 

2018年新春

日本低炭素都市研究協会

理事 川口武文