女猟師”狩りガール”

八王子恩方地域も通年のように「害獣駆除」が行われています。土日になれば猟銃を持ったハンターがアチコチに出没、時にはエコロジー村敷地内や三太郎小屋敷地内でもイノシシを追っています。農作物に被害をもたらすことで、農水省の発表によれば2015年度で農作物被害金額は、合計で191億円。主要な獣種別の被害金額はシカが最多の65億円。次いでイノシシが55億円、サルが13億円となっているそうです。しかし、これらの野生動物に対処するための管理捕獲をする猟師は高齢化が進み、環境省の発表によれば、平成25年度において狩猟免許保持者は全国で185000人、うち60歳以上が123000人とおよそ66%を高齢者が占めています。そこで大日本猟友会は女性をターゲットに特に若い女性を対象とした「目指せ!狩りガール」というWEBマガジンを開設したところ、高い反響を得ました。2015年の10月に開催された「第3回狩猟サミット」の参加者は、32都道府県から総勢177名が参加、このうち女性の参加者が46名(25.9%)を占めたそうです。ちなみに女性の猟銃免許保持者は平成25年度で2037人います。

 このサミットの模様を取材した日経ビジネス誌はこの女性猟師ブームについて、「狩猟女子の本やブログを見ると、東日本大震災がきっかけとなったという人もいます。見ると普通のかわいい女の子たちですが、自ら捕らえたイノシシやシカの皮をはぎ、飼っている鳥を絞め、解体し、料理して食べ、皮をなめす。体験をもとに狩猟や解体のワークショップを開催する人もいます」(日経ビジネス2015年10月号)と報告しています。

 これらの女性に猟師を目指す動機を尋ねたところ、「農作物への鳥獣被害を減らしたい」(福井県高浜町町議会議員の児玉千明さん(25))「シカ肉が好きなので、自分で獲って食べてみたい」(女優杏さん(31歳))「地域貢献の一つ」(北海道初山別村村役場勤務の吉田百花さん(23歳))「狩猟は命をいただく仕事。その意義や魅力を伝えたい」(奈良女子大大学院1年の竹村優希さん(23))と動機は様々です。目的(動機)とともに、狩猟そのものの魅力については、「自然の中を皆で駆け回って、獲物を分かち合う瞬間に幸せを感じる」(山梨県猟友会青年部の勝俣麻里加さん(25))「仕留めた瞬間が爽快」(北海道白糠町松野千紘さん(25))「撃ち損ねたシカと目が合うと、悔しさと闘志がわき起こる」(大阪府門真市の国見綾子さん(28))「たくさんのヒトの理解と動物の命をいただくことで成り立っている文化」(網・わなの狩猟免許をもつ長濱世奈さん(27))「ただの殺生と違うからこそ精神性がとても大事」(兵庫県朝来市の吉井あゆみさん)「命を頂くことで私たちは自分の命をつないでいる」(川崎市木こり系女猟師、原薫さん)「殺生を誰かがやってくれているおかげで肉を食べることができるんだと実感」(東大阪市の会社員、藤崎由美子さん(46))、、、、とさまざまな感想を述べています。

 これらの狩りガールに共通する通過点として「何故生き物を殺すのか?」という質問を必ず受けるそうです。先述の木こり系女猟の原薫さんは、初めて獲物を仕留めたときのことを「目が合いましたね。しばらく見つめ合っていましたよ。仕留めたときはうれしさ半分。あとは、ああ殺しちゃったなあって」と述べ、「今でははっきりと言えます。命に差はないと。食肉用で飼育される豚や牛と、山の中を歩き回る猪や鹿。どちらも同じ命なんです。その命を頂くことで私たちは自分の命をつないでいる」と信念を持って言えるそうです。

 先日、埼玉県越谷市の皮革工場を見学する機会に恵まれ、およそ4時間ほど皮のなめし工程から原皮製品になるまでを視察しましたが、ご案内を頂いた㈱ジュテルレザーの沼田聰会長からも「命を頂いている」「皮革製品になっても(皮は)呼吸している」というお話を頂きました。人間と動物の関係は古代から続いていますが、人間と動物の間の命のやり取りを一方的でなく双方が「命を繋ぐ」という感覚・感情を忘れてはならないでしょう。それにつけても人間同士の間こそ命の扱いの粗末さが目立ってきていることを改めて思う次第です。 

<DAIGOエコロジー村通信4月号より>

玄関でしゃべらせろ!

「森友問題」を見ていると「言葉(言語)」の持つ“いい加減さ”が見えて来るのだが、逆に言えば、「言葉(言語)」とは相当に奥が深いものだ、という風にも感じられる。世界のあらゆる存在のうちで、「言葉(言語)」を使うことでその存在を支えているのは人類のみだが、その存在の根本には「言葉(言語)」と「肉体(行為)」という二つの要素があり、そのどちらも主体にもなり得るし客体にもなり得る関係にある。歴史的に見れば、デカルトの「コギト(われ思うゆえにわれあり)」以後の人間社会がそのことを顕在化させた。デカルト以後、人間は「行為」と「言葉」の関係の様々な解釈を経る中で、その社会を今日まで進展させてきた、と言えよう。人間がこのような「言語」と「行為」の狭間で思い悩む様を、西洋もたとえばキリスト教、東洋もたとえば仏教、において「徳にいたらぬ存在」として描いており、そこに宗教がその宗旨(道徳)を滑り込ませることで「真実」という概念を構成している。一方、「法」は「事実」という概念(「事実」と「真実」は違う)を入れ込むことにより「正義(「真実」とはまた意味が違う)」という判断価値を行う分けだが、いずれにせよ、人間が人間のことを「信ずる」という行為は相当「怪しい」ものだ。とはいえ、ここで話を終えると、私自身が自らをこの現実社会からエスケープさせることになり、いくら趣味で「炭焼」をやっているからとはいえ、まだ“山中の仙人”になる訳にはいかず、まだまだ世迷人として「何が真実か」を探し歩くことを止める訳にはいかない。
 ということで、「言葉を弄する」というテーマの禅の公案の話を取り上げてみる。これは『雲門関(うんもんのかん)』という禅の名言の一つだ。唐の頃、ある坊さんが90日の説法の終わりに弟子たちに「仏法は誤って説くと眉やひげが抜け落ちるといわれているが、ワシの眉毛はまだ生えているか?」と問うた。すると弟子の一人は「賊をなす人は心虚なり(泥棒のようにビクビクしながら言葉を使い、真実を説くのが仏教者だ)」と答えた。もう一人は、「眉毛は確かに生えている(正しく説けばそれでよい)」と答えた。すると、雲門文偃(うんもんぶんえん)と言う禅師はただ「関(かん)!」とだけ答えその場を立ち去ったという。この公案の答えのヒントは「関(かん)」だが、“関”とは「玄関」の“関”のことだ。玄関とは家の入口のことだが、その由来はもともと入口ではなく、玄とは“玄妙”即ち、道理、根本の教え、真理の道と云う意味で、玄関とは玄妙なる道に進む関門、つまり仏門に入る入り口、般若の妙門であり、幽玄な神秘宝蔵の関門を意味した言葉である。禅寺では、客殿の入口にこの「玄関」という文字が掲げられ、「ここから先にはそう簡単には入れぬぞ!」という、いわば悟りの関所というのが「玄関」の本来の意味である。
「関!」と答えた雲門禅師が言いたかったことは、「言葉はどこまでも言葉でしかなく、どれほど多言、多弁を弄しても真実を伝えられるとは限らない。このように、言葉とはなかなか真実を超えることができないがそれでも超えていかないといけない。ならばどうするか!それは言葉が仏法を“体現”することしかない」ということだ。陽明学王陽明もこの公案をよく用いていたということだが、「言葉が仏法を体現する」とは、文字通り「言葉と行動の一致」ということだろう。「真実」に至る道はただ一つ。「言葉の体現」であり、それは「行為としての言葉」でなくてはならない、ということだ。
「森友問題」では、安倍晋三稲田朋美籠池泰典松井一郎など多彩な登場人物が多言、多弁を弄しているが、彼らの言葉の意味を観るのではなく、「言っていること」と「行為」の一致或いは矛盾だけを観るだけでよい。そこに「真実」がある。言葉を弄する職業である政治家にはどんどんしゃべらせることが真実への近道である。最後に、先述した禅の公案に引っ掛けるとしたら、玄関先のインタビューは結構効果があるように思える。記者諸君、組織、独立問わずジャーナリスト諸君は、是非「玄関先インタビュー」を心掛けてもらいたい。

正直ということ

森友問題における籠池泰典氏と、係ったと思われる政治家(或いは官僚)を比較すると「正直」という観念の実体が赤裸々に見えて来る。バイアスのかかった報道だけを通すと、籠池氏は「常識はずれのアナクロな人間」であり、森友問題とはそのような非常識な籠池氏個人が起こしたものという、今流行の言葉で言えば”印象操作”が行われている。個人的な事を言えば、65年も生きていると、自分自身も含めて誰もが、人生において「意志と行動における不一致或いは矛盾」という経験を持つものだが、しかし人は一般的に誰しも、自身の根本的価値観の部分でのそのような不一致・矛盾は、例えば何らかの外部強制が無い限り殆どそれは無いように思える。ちなみに、意図して不一致或いは矛盾を起す者のことを世間では「詐欺師」と言う。そのような視点からこの間の一連の籠池泰典氏を見てみると、「意志と行動の一致」がかなり見られる。悪く言えば「確信犯」であるし、良く言えば「正直者」ということだ。籠池氏の信念は封建時代のママであり、あのような教育理念を持つことは彼にとっては非常に自然なことだ。ただ、そのような彼自身に「封建的徳」が本当にあるかどうかはわからないが、「正直」ということに限って言えば、「ある」様に見える。或いはそれは単に彼の一本気な性格なのかもしれないが、、、。翻って、彼に関わったと思われる政治家或いは官僚の言動及び行動はまさに不一致と矛盾のオンパレードであり、しかも非常に意図的である。先述の「詐欺師」という表現がぴたりと当てはまる。ほとんどの国民は、森友問題に関わったと思われる政治家或いは官僚の慌てふためきやドタバタの醜態を見ることで、「怪しい」と感じている筈だ。普通「怪しい」と言う感覚は対象者における「言動不一致」時に湧き起るものだ。いくら取り繕ってもボロは出る。森友問題は、先週金曜日に籠池氏が「理事長辞任」で一旦コトが収まったかのような印象があるが、”正直者”の籠池氏は、「また開校認可申請を出す」と明言している。彼の意思からすれば当然だろう。籠池氏の開校への意志は相当に強い。その背景には、正直ながらも民主主義的価値観に欠ける籠池氏が信じて疑わない「仲間」と思っている安倍政権があるのであり、彼は未だに自分がその詐欺師政権から利用されたことを認識してないようだが、これも彼が「正直」なせいだろう。籠池氏は私と同世代と言うこともあり、彼のような人間は結構存在している。価値観は全く逆であるが、人間存在の根本的な場面において、私は彼を支持するものである。期待することは、彼があくまでも彼の意思と理念に基づいて、今の態度を崩さず堂々と「開校再認可申請」を貫くことによって、詐欺師政権の矛盾と犯罪性が暴露されることだ。野党の追及は何故かどうも手ぬるく、期待が持てない。籠池氏が持つ教育理念の善し悪しの価値判断はまた別のものとして、安倍詐欺政権の言動不一致が、実は全く低次元レベルの利権とカネまみれの品性の無いものであったことを、籠池氏自身が明らかにすることができる可能性は十分あるように思える。私がその一つの根拠と思える動画がある。独立ジャーナリストの菅野完氏が籠池氏に独占インタビューした動画だが、籠池氏が話す政治家との関係の内容の衝撃性とともに、テレビ報道からは読み取れないありのままの籠池氏の人間性も垣間見えてくる。秀逸な動画コンテンツだ。必見である。

 ・籠池泰典氏緊急独占インタビューby菅野完

https://www.youtube.com/watch?v=nL-...

<追記>森友のような案件では、これまで必ずや原因不明の死者が何名か出たものであるが、籠池氏がその対象とならないとは限らない。彼が中途半端な対応をしていたならば、そのようなことが起こったかもしれないが、敢えてマスコミに自らをさらけ出したことの要因の一つに彼なりの生命に関する自己防衛策があるのかもしれない。

森友疑獄の裏で進む国土売渡しの謀議

安倍政権の根底を揺るがすような森友疑獄問題がクロースアップされている中で、3月7日に水道事業の民営化路線を進める「水道法改正案」が閣議決定されました。ほぼすべてのマスコミはこのことを報道していませんが、政府は国民の生命確保の基礎中の基礎である「水」を外資に売り渡す「水道事業<完全>民営化」路線への足固めを決めつつあります。「水はただ」とほとんどの日本人が思っている豊かな森林資源を持つ我が国の貴重な財産がまたもや、グローバリズムビジネスに売り渡されようとしているこの問題の本質を知る必要があります。 森友学園は「教育の民営化」路線であり、小泉政権から続く歴代政権は民主党政権も含め、全ての政権が「規制緩和」「民営化」路線を目指して来ました。しかし、米国大統領選、或いはイギリスEU離脱の根底にあるものは、「ナショナリズム復活」という表層的なことではなく、各国国民がグローバリズムビジネスによる「国民の財産の収奪行為」に気づき始めたことが大きな要因の一つです。
 森友問題の黒幕の一人、麻生財務大臣(当時副総理)の発言(2013年4月)は具体的に「水民営化」と「教育民営化」について言及しています。彼は、CSIS(米戦略国際問題研究所)で、「日本経済再生に向けた日本の取組みと将来の課題」というタイトルでスピーチを行い、その中で、「日本の国営もしくは市営・町営水道は、すべて民営化します」と発言しています。同時に「いわゆる学校を造って運営は民間、民営化する、公設民営、そういったものもひとつの考え方に、アイデアとして上がってきつつあります」と述べています。
 日本の水事業(上下含む)に関する資産規模は120兆円で道路・港湾・空港・交通などのインフラ規模合計185兆円のうち、実に65%を占めています。TPPもそうでしたが、日本国民の財産を「外資」に売り渡す、或いは「民営化」という名のもとに、「国土」を「売り渡す」行為について、我々は「すべてはカネ(が大事)」という思考からどうやれば抜け出せるかを真摯に考えないといけないところに来ているように思われます。

チャーチルの寓話とエコロジー村

よく聞かれます。「何故、エコロジー村は皆さん仲良くそんなに長く続いているのですか?」という疑問。エコロジー村は開村(1996年)して20年過ぎました。確かに、メンバーの入れ替えはそれぞれの事情によりありますが、古い新しいに限らず、メンバー仲良く活動をしています。長続きの要因はいろいろなことが考えられますが、「炭を焼く」という行為を通じての共有できる価値観を持っていることが大きなように思えます。
イギリスのチャーチルはいろいろな場面で寓話を使うのが上手い政治家でしたが、それぞれが自分だけの価値観に拘ることの愚かさについて次のような話をしています。
『昔々、動物園の動物たちが全員一致で暴力を放棄して平和に暮らそうと決めました。そこで、サイが「牙を使うのは野蛮なので禁止しよう。しかし、角は自分の身を守るために使うので許しても良い」と主張しました。これに牡鹿とヤマアラシは賛成しましたが、トラは「角は使うべきではない」と言い、反対に「牙やかぎ爪は賞賛されるもので、全く危険なものではない」と主張しました。すると、最後にクマが、「牙もかぎ爪も角もすべて使うべきではない」と言い、その代わりに皆の意見が一致しない時は、相手をしっかり抱きしめることにしよう」と提案しました。』
 チャーチルは、この話を軍縮キャンペーンの一環として使用しましたが、「この動物たちは皆、自分が暴力を使うのは平和と正義のためだけに限ると信じている。だが、道徳性が暴力や権威や支配の正統性を示す確固とした根拠になるのは、異なる見方や価値判断を排除した時だけである。異なる価値観を受け入れれば、そのような体制は即座に崩壊してしまう」と説明しています。
この説明はちょっとわかりにくい部分もあります。「価値観の多様性を認めること」が良いのか、それともそれは認めずに「多様な価値観」の上部に新たな共通の価値観を作るという話なのか。大きな世界政治の話ですので、チャーチルはもしかしたら国際連合のようなものを思考していたのかもしれません。(※ちなみにこの寓話は1928年のものです)
 さて、小さな世界のエコロジー村は、それぞれメンバーの持つ価値観の上に新たな価値観を作っている訳ではありません。もちろん最低限のルールはありますが、それは各人が持つ価値観とはレベルがちょっと違う話です。チャーチルの寓話に当てはめれば、メンバー(各動物)がそれぞれ自己主張を通せば、集まりは崩壊してしまうでしょう。冒頭に「炭を焼く行為を通じた共有できる価値観があるのではないか」と言いましたが、これはあくまでも私個人の意見です。確かに、エコロジー村の活動は現実的な金銭を得るための活動ではなく、とはいえ、各個人がバラバラに個人の趣味として行動している訳でもなく、とはいえ、何かの具体的な目標や目的のために一致団結して活動している訳でもありません。が、確かにこの20年を通じて、何らかの「共同」或いは「協同」「協働」という”価値”に包摂されているように感じます。自然に作り上げられたとも言えますが、小さな世界の何気ない集まりの中に、もしかしたら今世界が求めている”形(カタチ)”のヒントがあるかもしれない、などと山の中で倒した木の枝を払いながら思う春を迎えるある日の話でした。

中小企業よ、連帯せよ!

世界の先進国における中小企業の割合は、日本99.7%、米国99.9%、EU99.8%、また総雇用者数に占める従業員の割合は、日本69.0%、米国57.9%、EU(独仏英平均)57.0%となっています。このように、世界的に見ても中小企業が占める指標割合は高いのですが、何故か、メディアにおけるビジネスシーンで取り上げられるのは殆ど大企業、多国籍企業等の話題がほとんどであり、時折「頑張る中小企業!」のような申し訳程度のニュースが散見される程度です。先ほどの指標を見ても、中小企業が社会或いは国家に与える潜在的影響力は相当なものと思えるのですが、消費者も結構一方的な大企業的視点からしかモノをみていないように思えます。翻って、中小企業自身も何故か、このような潜在力があるにもかかわらず、自らを過小評価するようなところがあるのではないでしょうか。 組織論から見た時に、大企業とは単にあつかう資本や売り上げが大きいというだけでなく、組織そのものが肥大化・複雑化しており、このような組織が「順調な成長を遂げる」ということは非常に困難なことです。それにもかかわらず、相変わらず大企業は「成長」しておるということは、やはりなんらかのカラクリがあると思わざるを得ません。逆に、昨今の情報通信技術の目を見張る進展は、工夫次第でこのような従来の大企業中心経済を革命的にひっくり返すことが出来るように思えます。
 賛否両論あるトランプ大統領による「一国主義」ですが、行き過ぎたグローバル化ということはとりもなおさず、世界の1%しかない大企業・多国籍企業が富のほとんどを”持ち逃げ”している状況への叛旗であり、この流れはこれからも大きくなることはあっても消えることはないでしょう。「一国主義」を国家的視点からみるのではなく、「ローカル経済主義」という観点から見た場合、まさに中小企業こそが地に足ついた経済展開が出来るセクターです。これに加え、先述の情報通信技術の活用は、このような「ローカル経済」の鎖国的展開(保護主義)ではなく、従来の本当の意味でのグローバル的な展開、すなわち多様化した社会経済的連携につなげることが可能です。
 現実として、協同組合については、世界的な連携組織「国際協同組合同盟(ICA:本部ブリュッセル)」がありますが、このような取組が協同組合に出来て中小企業にできない絶対的な理由は無いように思えます。敢えて、大企業を外し、中小企業同士が世界的につながり、さまざまな経営的課題、そして社会的課題に至るまでオープンに討議し、協議し、連帯しあう道を模索してもらいたいものです。こじつけではありませんが、このような中小企業の力は、低炭素社会実現を目指す一つの大きな動因にもまた目的因にもなり得るものです。

【私考】革命情勢論からみたトランプ出現

トランプ出現に世界が右往左往し、軍事或いは経済という目の前の事柄に拘泥するかと思えば、片方では平和・民主主義という普遍的価値の一般観念にしがみつく抵抗運動が続いている。直近の世界史的出来事と言えば、75年前の第二次世界大戦、およそ30年前のソ連崩壊が挙げられるが、巷の70年周期説を取れば、第二次大戦後の世界基準としての「資本主義」VS「共産主義」における両者の崩壊が始まったとみることも可能だろう。「いや、いずれはトランプだって人の子、おとなしく現状に合わせるさ」という根拠なき楽観論は徐々に消えつつある中、まさに混沌(カオス)としている状況に世界は陥っている。

 さて、このような状況を私は「面白い」と言えば語弊はあるが、自らの精神或いは意識の内面に湧き起る高揚感を否定できない。一つは、余りにも自らの理解を超える現象が事実として目の前に現れた時に起る「放心」状態として捉えることもできようが、そうでもなさそうだ。いろいろ心中を模索しているうちに、今から50年近い前の心情に近いものであるように思えた。すなわち、「革命前夜」という意識だ。須賀しのぶはドイツ東西の壁崩壊をテーマにした『革命前夜』(文芸春秋)と言う本について「革命前夜の民衆の言葉が勝利をおさめた高揚感を描きたかった」と述懐しているが、彼女の高揚感は敢えて言えば理性的なものだが、私の高揚感はもっと感性的、破壊的なものだ。カントで言う「構成的理念」が須賀の高揚感の要因だとすれば、「統整的理念」が私の高揚感(の要因)と言っても良いだろう。そのような動機から、まさに「革命」としての切り口から今一度トランプ現象を考察してみようと思う。

フランス革命』(岩波文庫:柴田三千雄)によると、革命の発生条件として3つを挙げている。

 ①既存の支配体制の統合力の破綻

 ②大規模な民衆騒擾、都市や農民の民衆蜂起

 ③新しい政治集団になり得るものが存在

また、ロシア革命を指導したレーニンは、「革命的情勢到来の時期指標」として、以下のように述べている。

 「革命的情勢を切り開くには、搾取され圧迫された大衆がこれまでどおりに生活ができないということを意識して変更を要求するというだけでは不十分である。それに、搾取者(支配階級)がその支配をこれまでのような遣り方では支配を維持することができなくなる、という情勢の加味が必要である。即ち、『下層の生活危機』に加えて『上層の何らかの危機、支配階級政治の危機』が重なった時、その二重危機が被圧迫階級の不満と憤激とが突いて出る裂け目を作り出すのである。革命が爆発するには、『下層』が以前のような仕方で生活することを欲しないというだけでは十分ではない。『上層』がこれまでのようにやっていけなくなるということが、また必要なのだ。これに『大衆の独立の歴史的行動』としての革命的昂揚が絶対に必要である。この条件、この行動が結合した時にはじめて革命は勝利することができる。これが革命の法理であり、『革命は、全国民的な(被搾取者も搾取者をもまきこむ)危機なしには起こり得ない』という言葉によって表現される」

 過去のフランス革命ロシア革命と言う世界史的転換における出来事に共通している事項の一つは、「既存支配力の矛盾の露呈」ということだ。今回のトランプ出現を、支配階級における内部対立と捉える見方はあまり表面に出てこないが、一部の見識者の間でははっきりとそのことを論じている。彼らの論では、グローバリズム体制に支配の根拠を持つものとして、「ネオコン軍産複合体)」「NATO体制」或いは「新世界秩序派(NWO)」などが挙げられているが、トランプはそのような支配層に公然と反旗を翻し、新たな「秩序」を構築しようとしているという見方である。『秩序』という抽象的表現では分かりにくいだろうが、「一極覇権主義」VS「多極主義」という見方をすれば少し分かりやすいだろう。これまでの米国による一極統治ではなく、例えばロシア、中国、EUなどに統治を分散させる「多極型」ということであり、経済的観点から見れば、「グローバリズム新自由主義)」VS「ローカリズム保護主義)」ということだ。トランプが「アメリカファースト」という「1国主義」を唱えることもこれで理解できる。面白いことに、昨日(2月7日)のTV報道番組でトランプを支持する白人労働者(トラックドライバー)が「(トランプは)新世界秩序と闘っている」とインタビューにはっきりと答えていたことにはいささか驚愕した。トランプを支持する労働者階級にこのような意識があることの発見は政治的にも重要なことだ。彼らは単に自らの収入が増えること、或いは生活が安定することだけの目的でトランプを支持しているのではなく、もっと根本的な意識に目覚めている。しかし、だからと言って、トランプが労働者の味方かと言えば、そうではないだろう。生粋のビジネスマン、商売人の彼はどっぷりと資本主義に浸かっている人物であり、思考も全く資本主義そのものだ。ソ連崩壊以降、「資本主義こそ人類最後の到達点」と言ったフランシス・フクヤマの論は、残念ながら、このような形で資本主義そのものの矛盾を露呈してしまったのだ。もちろん、反トランプ派の支配層もだまってはいないだろう。現在見受けられるリベラル派も巻き込んだ「反トランプ合唱現象」は、自然発生的作用をうまく利用した意図的なものと私には見受けられる。数年前に起きた国家権力が総力挙げてキャンペーンを張った「小沢一郎」に対する攻撃と似たものを感じる。トランプとオバマを比して、「戦争を起すトランプ」「平和を希求したオバマ」というような失笑に値する言辞を吐く評論家も見受けられるが、このようにトランプへの異常な攻撃は意図的なものであり、これらはまさに支配層における権力闘争として見るべきであろう。このような見方をした時に、はじめて先述のレーニンの言葉が一つの歴史的真実として蘇るのである。すなわち、「搾取者(支配階級)がその支配をこれまでのような遣り方では支配を維持することができなくな」ってきたことであり、しかも、単に「上層」における権力闘争だけでなく、「下層」においても生活危機がますます限界へと突き進み、その「不満と憤激」が社会に「裂け目」を作ったのが、今回のトランプ現象なのである。

さて、トランプ出現への私考の取組はまだまだ緒についたばかりである。この先、トランプが、米国が、日本が、EUが、否世界がどうなるのか、誰にもわからない。しかし、トランプ出現がこれまで隠されていたもの、見えなかったものを露呈してくれたことは、歴史が、私だけでなく、政治家も、アスリートも、ホームレスも、富裕層も、貧困層も、男も女も、ありとあらゆる世界に存在する一人一人に付与した逃れられない“尋問”のような気がする。西洋の宗教ではそれを「黙示」と言い、東洋の宗教では「末法」というのかもしれないが、「新しい未来への陣痛の始まり」と捉えることも可能だ。世界の動きを何もしないで評論家としてみるのも、このようなカオスにおける対処法としては悪くはないだろう。しかし、冒頭に私は「高揚している」と言った。また「面白い」とも言った。それは、トランプ出現を感情の表層的部分、或いは薄っぺらな一般論的普遍価値で捉えるのではなく、「歴史の転換」の場面に居合わせることが出来た偶然或いは必然からまた逃れようとするのではなく、新たな「未来」を創造するという喜びに転換できるのではないか、という期待からくるものだ。そうなると、また再びレーニンの言う、「『大衆の独立の歴史的行動』としての革命的昂揚」を作り上げるにはどうすればよいか、という命題が自らの使命感として湧いてくる気がする。そこには、今の年齢からくるノスタルジアも入っているだろうが、人生の存在理由を少し見失いかけた私にはいままた老い先短い生命が躍動しそうな気がするのである。