チャーチルの寓話とエコロジー村

よく聞かれます。「何故、エコロジー村は皆さん仲良くそんなに長く続いているのですか?」という疑問。エコロジー村は開村(1996年)して20年過ぎました。確かに、メンバーの入れ替えはそれぞれの事情によりありますが、古い新しいに限らず、メンバー仲良く活動をしています。長続きの要因はいろいろなことが考えられますが、「炭を焼く」という行為を通じての共有できる価値観を持っていることが大きなように思えます。
イギリスのチャーチルはいろいろな場面で寓話を使うのが上手い政治家でしたが、それぞれが自分だけの価値観に拘ることの愚かさについて次のような話をしています。
『昔々、動物園の動物たちが全員一致で暴力を放棄して平和に暮らそうと決めました。そこで、サイが「牙を使うのは野蛮なので禁止しよう。しかし、角は自分の身を守るために使うので許しても良い」と主張しました。これに牡鹿とヤマアラシは賛成しましたが、トラは「角は使うべきではない」と言い、反対に「牙やかぎ爪は賞賛されるもので、全く危険なものではない」と主張しました。すると、最後にクマが、「牙もかぎ爪も角もすべて使うべきではない」と言い、その代わりに皆の意見が一致しない時は、相手をしっかり抱きしめることにしよう」と提案しました。』
 チャーチルは、この話を軍縮キャンペーンの一環として使用しましたが、「この動物たちは皆、自分が暴力を使うのは平和と正義のためだけに限ると信じている。だが、道徳性が暴力や権威や支配の正統性を示す確固とした根拠になるのは、異なる見方や価値判断を排除した時だけである。異なる価値観を受け入れれば、そのような体制は即座に崩壊してしまう」と説明しています。
この説明はちょっとわかりにくい部分もあります。「価値観の多様性を認めること」が良いのか、それともそれは認めずに「多様な価値観」の上部に新たな共通の価値観を作るという話なのか。大きな世界政治の話ですので、チャーチルはもしかしたら国際連合のようなものを思考していたのかもしれません。(※ちなみにこの寓話は1928年のものです)
 さて、小さな世界のエコロジー村は、それぞれメンバーの持つ価値観の上に新たな価値観を作っている訳ではありません。もちろん最低限のルールはありますが、それは各人が持つ価値観とはレベルがちょっと違う話です。チャーチルの寓話に当てはめれば、メンバー(各動物)がそれぞれ自己主張を通せば、集まりは崩壊してしまうでしょう。冒頭に「炭を焼く行為を通じた共有できる価値観があるのではないか」と言いましたが、これはあくまでも私個人の意見です。確かに、エコロジー村の活動は現実的な金銭を得るための活動ではなく、とはいえ、各個人がバラバラに個人の趣味として行動している訳でもなく、とはいえ、何かの具体的な目標や目的のために一致団結して活動している訳でもありません。が、確かにこの20年を通じて、何らかの「共同」或いは「協同」「協働」という”価値”に包摂されているように感じます。自然に作り上げられたとも言えますが、小さな世界の何気ない集まりの中に、もしかしたら今世界が求めている”形(カタチ)”のヒントがあるかもしれない、などと山の中で倒した木の枝を払いながら思う春を迎えるある日の話でした。

中小企業よ、連帯せよ!

世界の先進国における中小企業の割合は、日本99.7%、米国99.9%、EU99.8%、また総雇用者数に占める従業員の割合は、日本69.0%、米国57.9%、EU(独仏英平均)57.0%となっています。このように、世界的に見ても中小企業が占める指標割合は高いのですが、何故か、メディアにおけるビジネスシーンで取り上げられるのは殆ど大企業、多国籍企業等の話題がほとんどであり、時折「頑張る中小企業!」のような申し訳程度のニュースが散見される程度です。先ほどの指標を見ても、中小企業が社会或いは国家に与える潜在的影響力は相当なものと思えるのですが、消費者も結構一方的な大企業的視点からしかモノをみていないように思えます。翻って、中小企業自身も何故か、このような潜在力があるにもかかわらず、自らを過小評価するようなところがあるのではないでしょうか。 組織論から見た時に、大企業とは単にあつかう資本や売り上げが大きいというだけでなく、組織そのものが肥大化・複雑化しており、このような組織が「順調な成長を遂げる」ということは非常に困難なことです。それにもかかわらず、相変わらず大企業は「成長」しておるということは、やはりなんらかのカラクリがあると思わざるを得ません。逆に、昨今の情報通信技術の目を見張る進展は、工夫次第でこのような従来の大企業中心経済を革命的にひっくり返すことが出来るように思えます。
 賛否両論あるトランプ大統領による「一国主義」ですが、行き過ぎたグローバル化ということはとりもなおさず、世界の1%しかない大企業・多国籍企業が富のほとんどを”持ち逃げ”している状況への叛旗であり、この流れはこれからも大きくなることはあっても消えることはないでしょう。「一国主義」を国家的視点からみるのではなく、「ローカル経済主義」という観点から見た場合、まさに中小企業こそが地に足ついた経済展開が出来るセクターです。これに加え、先述の情報通信技術の活用は、このような「ローカル経済」の鎖国的展開(保護主義)ではなく、従来の本当の意味でのグローバル的な展開、すなわち多様化した社会経済的連携につなげることが可能です。
 現実として、協同組合については、世界的な連携組織「国際協同組合同盟(ICA:本部ブリュッセル)」がありますが、このような取組が協同組合に出来て中小企業にできない絶対的な理由は無いように思えます。敢えて、大企業を外し、中小企業同士が世界的につながり、さまざまな経営的課題、そして社会的課題に至るまでオープンに討議し、協議し、連帯しあう道を模索してもらいたいものです。こじつけではありませんが、このような中小企業の力は、低炭素社会実現を目指す一つの大きな動因にもまた目的因にもなり得るものです。

「炭」という漢字と「灰」という漢字の違い

先日、八王子の小学校の「炭焼体験教室」を行いましたが、窯出し(出炭)で
何とほとんど炭が残っていずに、かろうじて形をとどめた”灰”寸前の”炭”が、ド ラム缶窯の底に横たわっている、という惨状でした!授業の冒頭に、炭の効能や 歴史、用途などを得意満面で講義・指導した身としては、非常に辛く(笑)恥ずか しい結果となりましたが、児童へ「炭」という漢字と「灰」という漢字の違いを 例に出して、「炭から山を取ると灰になるんだよ!」などとしたり顔で話したこ とを思い出すと、ひとりでに赤面する思いです。
 そういうことがあったからという訳ではありませんが、何故「炭(すみ)」は 「炭」と書くのだろうと、ふと考えて調べてみました。漢字・漢和辞典を調べて みると、
『会意文字です(屵+火)。「山」の象形と「削り取られた崖」の象形と「燃えた 炎」の象形から、崖から掘り出した「石炭(すみ)」を意味する「炭」という漢字 が成り立ちました。』
と記述されていました。それで、次に「灰」という漢字の由来について再度調べ ると、
『会意兼形声文字です(ナ(又)+火)。「右手」の象形(「手・右手」の意味)と 「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)から、手で拾う事ができる冷たい火「は い」を意味する「灰」という漢字が成り立ちました。』
と記述されていました。
 なるほど、ととりあえず納得したのですが、私としては、子ども達に説明した 「炭から山を取ると灰になる」という漢字の違いをそのまま、現実の形状(個体 の「炭」と紛体の「灰」)の違いに重ね合わせて説明したかった(したい)の で、なにかこじつけでも良いからすんなりと説明できないものか、と思い、再再 度漢和辞典で「山」の語源を調べようと思いました。すなわち、「炭」- 「山」=「灰」という簡易な数式的理解(合理的理解?)手法を”開発・発見”し たかった訳です。それで「山」の語源を調べるとこれは本当に”山ほど(32種 類)”その意味はありました。ここには全て書けませんが、「高く盛り上がった 状態」という当たり前の意味から「たくさん寄り集まっている事」「物事の頂 点・重要な部分」、そして中には「神が住む神聖な場所」という意味もあるよう です。
 さて、先ほどの数式的合理的理解に近い、「炭と灰」の漢字の違いの説明をど のようにするか、いろいろ考え悩みましたが、以下のような説明を考えました。
「炭はもともと人間の魂が宿る大地の土に根を持つ植物から、宇宙最大のエネル ギーである火を通して出来ます。そして炭を燃やすことにより人間は神が住む大 地のエネルギーを熱として頂き、その熱は人間を温め癒してくれます。大地の魂 (神)が去ったあとの贈り物が灰です。灰はまた土に戻りその土を豊かな土壌に してくれます。そして人間はまた豊かな大地から育った食物から生命の源を得る のです。」
 全然、数式的合理性どころか、情緒・感性のみの説明になりましたが、果たし て小学校の児童たちは何得してくれるでしょうか!だれか漢字の得意な方の助言 やアドバイスがあれば是非お知恵を頂きたいと思うところです。

『大菩薩峠』と八王子

今年は、DAIGOエコロジー村のある八王子が市制100周年を迎え、いろいろな催しが企画されています。東京オリンピックを見据えたスポーツクライミングのワールドカップも東京都では初と言うことでエコロジー村近くの総合体育館で5月に開催されるようです。知名度は全国区であるものの中味を問われるとなかなか的確なイメージを描写できない八王子ですが、目線をちょっと変えてみると意外な話題も提供してくれそうです。ご存じ中里介山の『大菩薩峠』。その36巻「新月の巻」に八王子の炭焼について記した部分があります。とりあえず介山が書いたそのままをちょっと記しましょう。
・・・・・・・・・・・・
「八王子在の炭焼はまた格別な風流でござる」
「炭焼?」
「阿呆いわずときなはれ、江戸で炭が焼けますかい」
安直兄いがたしなめると、ダニの丈次が、
「でも、八王子から出てきた炭焼だが、釜出しのいいのを安くするから買っておくんなせえと門付振売りに来たのを、わっしゃ新宿の通りでよく見受けしやしたぜ」
「ではやっぱり、江戸でも炭を焼くんだね」
「炭焼き江戸っ子!」
「道理で色が黒い!」
      ・・・・・・・・・・<略>・・・・・・
「君たち、まだ若い、そもそも武州八王子というところは、なめさんも先刻言われた通り、新刀の名人繁慶もいたし、東洲斎写楽も八王子っ子だという説があるし、また君たちにはちょっと買いきれまいが、二代目高尾と言う吉原きってのおいらんも出たし、それから君たち、いまだに車人形というものを見たことはあるめえがの------そもそも・・・・」
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とその後、八王子にまつわる人物名が、鬼小島靖堂・鎌倉権五郎影政・尾崎咢堂・塩野適斉・桑原騰庵・近藤三助・落合直文など、私も知らぬ名前が結構出て来ます。圧巻は徳富蘆花を芋虫呼ばわりしている個所です。
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「君たち、八王子八王子と安く言うが、そもそも八王子という名前の出所来歴を知るめえな。・・<略>・・そもそも八王子と言う名は法華経から来ているんだぜ。法華経のどこにどう出ているか、君たちいっぺんあれを縦から棒読みにしてみな、すぐわかることだあな。ところがものを知らねえ奴は仕方のねえもんで、近ごろ徳富蘆花という男が、芋虫のたわごとという本を書いたんだ、その本の中に、ご丁寧に八王子を八王寺、八王寺と書いている。大和の国には王寺と言うところはあるが、八王子が八王寺じゃものにならねえ、蘆花と言う男が、法華経一つ満足によんでいねえということが、これでわかる・・・・」
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介山が八王子の炭(案下炭)をこのような形で”評価”してくれたことは素直に嬉しいですね。東洲斎写楽八王子説も写楽自身が謎に富んだ人物でもあり、信憑性はともかくも話として面白いです。また花魁高尾太夫は十一代までいたようですが、二代目は仙台高尾といい、陸奥仙台藩主伊達綱宗の身請け話を「他に好きな男(間夫)がいるから」と袖にしたために惨殺された、という話があります。小説『大菩薩峠』は未完の長編で、登場人物の彷徨いをモチーフにしているという指摘もありますが、八王子と言う町は今昔、流浪の民或いは漂白民が彷徨った町ではないか、と言う気がします。こう言う私も自称彷徨人ですが、彷徨人であるプライドを捨てることなく住むことが出来る町が八王子の目に見えない魅力なのではないか、と最近よく考えます。人間の業を30年にかけて描こうとした中里介山ですが、まだ読了に及んでいない彼の『大菩薩峠』を今年は一年かけて読んでみたいと思います。

『世間虚仮・唯仏是真』

2017年の世界はトランプ新大統領就任で益々不透明な状況へと突入するようです。誰もが先に不安・不信を感じながら目の前の可視化できるものだけを信じ(ようとす)る。しかし可視化されたものの実体も果たしてあるのかどうかわからない。ただ、イメージだけが先行し、目の前にある実体とおぼしきものを無理やりイメージと合体させる。。。。
トランプにまつわる報道やそれに伴う現象を見ていると、誰もが「虚仮(こけ)にされている」という言葉がぴったりのような気がします。
 「虚仮」は仏教用語ですが、「実体のないもの」「ウソ」「空しい」などの意味があります。ヤクザが派手な格好をして派手な車で乗り付け脅すことを「虚仮脅し」と言いますが、脅される側は、服装や車から勝手にイメージを作りあげ、そこにヤクザは言葉巧みに人間の心理を突いてくる訳です。ヤクザに限らず政治家にもそのような人種は結構いるようですが。。。
テーマの『世間虚仮・唯仏是真(せけんこけ・ゆいぶつぜしん)』とは、聖徳太子の言葉です。直訳すれば、「世間の人の心は嘘ばかりで 真実は無い。ただ、仏の教えのみが真実である」という意味ですが、トランプ現象に対して、「メディアが・・・・」「でも現実は・・・・」「だって常識で考えれば・・・・」などと自我中心的に解釈し、右往左往する様が「世間虚仮」です。「株価」「為替」に自らの生活を重ね合わせて判断することも「世間虚仮」でしょう。そう考えると我々の過ごす時間は殆ど、この「虚仮」というものにまとわりつかれているようです。
 さて、新しい年『酉年』は変化が起きる年と言われていますが、私たち一人一人にも大きな変化の波が来そうです。できれば、「虚仮」ではなく「是真」と言える変化を遂げたいと思うものです。

2017年正月自然別荘滞在記

 今回で3度目の南伊豆某所にある洞窟(以後”自然別荘”と称す)で三が日を過ごした。今までの中で一番暖かで穏やかな日和に恵まれた。宿主の縄文人、三森師匠は前日大晦日の日に先に投宿開始。私は一日遅れて元旦の早朝六時高尾を出発、現地に正午きっかりに到着する。まずは寝床の確保が最初の作業だ。岩石ごろごろの所ではあるが私のテント張場は決まっている。別荘の入口付近に張るのは、寝床から見る満点の星空とはるか太平洋から登る朝日の鑑賞にうってつけだからだが、夜間はどうしても冷えるので夜中の生理現象に備える意味もある。宿主は元旦早朝から別荘近くの磯場で釣り三昧の時間を過ごしているとみえ、午後5時過ぎて辺りも暗くなるまでもまだ帰着していない。やっと6時過ぎに師匠が帰荘。獲物はメジナとカワハギ。早速たき火を囲んで二人で宴会を始めるも師匠は風邪気味とかで早々と就寝に及び、一人残された私は持参したウイスキー片手に別荘からのオリオン座とその直下に赤青に点滅するシリウスを眺めながら、一年振りの別荘での新年の夜をゆっくりと堪能する。

 さて翌朝二日。初日の出ではないが、海上から厳かに昇る太陽を期待しながら、暗いうち午前五時に起床。焚き火の傍らで朝食の焼き餅を焼いていると、三森師匠もやおら起き上がる。聞くと、シュラフを忘れたとのことで、風邪気味と言うこともうなづける。縄文人の師匠とは言え、真冬の別荘でシュラフ無しで過ごすことはさすがにきついのではないかと思いきや、師匠いわく。「もう体が慣れて来たから大丈夫!」とのこと。やはり縄文人の評価は正しいようだ。翻って私は、つとにやらなくなった結構高価な登山用具一式を持ち込み、まさに道具に頼る現代人。今年も改めて師匠からは縄文的生き方を学ばせてもらった。実は別荘に来る目的の一つにこの「縄文的生き方」を少しでも体得しようという動機もあるのである。そうこうしているうちにいよいよ朝日が昇る瞬間が訪れる。別荘奥から眺める太陽は、別荘の淵が切り取る空間のちょうど真ん中から昇って行く。その太陽に照らされ別荘の中も徐々に赤く染まって行く。この別荘の状況から見てこのような状態(洞窟)になったのは伊豆東部火山群の爆発か富士山爆発の影響によるものと思われるが、少なくとも500年から1000年、否もっと前の縄文時代に遡ることも出来るかもしれない、、、、などと想像してみるが、古の人もこの別荘からの神々しい昇陽を眺めたのではなかろうか。そう思うと、今この瞬間に古人と時間を超えて一体となったような気になる。

 二日目の別荘生活はこのように荘厳な心境から始まったのだが、一転して師匠と私は、釣行の準備をし、別荘近くにある通称“竜宮城”と地元の人が詠んでいる磯場へ出かける。実は縄文人たる三森師匠だが、サングラスにちょっと高価そうな竿、ワークマンで買ったというジャンパー。その釣行スタイルはまさに今風アングラーではないか!「縄文式釣はやらないのか?」という私の質問に答えて、「そんなんで釣れるわけはない!」と合理的且つ科学的(と思われる)返事が軽く返される。なるほど!現代において縄文式スタイルを貫くためには必要に応じて“現実主義”を取り入れることも必要なのだ、と私は勝手に解釈、これまた新しい教えとして納得する(笑)。さて釣行の結果だが、私は持参した渓流用ののべ竿に単純な浮き仕掛けにもかかわらず、メジナとフグを釣り上げることが出来た。これで今夜のおかずはとりあえずゲットした訳だ。この日は、私は午前中で磯場を離れる。ちなみにこの磯場は満潮時には渡れないのだが、干潮時には隣接するサンドスキー場の客たちも気軽に渡れるので、この日も結構な人たちでにぎわっていた。さて重要な作業を行わないといけない。別荘で何と言っても重要な物資は水である。持参した2Lペットボトルに集落の神社の御手水舎から頂く。もちろんその前にお賽銭を上げるのが常識だ。ついでに集落民宿の酒屋へ寄り、夜の宴会用に缶ビールを2本購入。ここの店主は80過ぎのおばあちゃんだが、口達者でいろいろ話をする。この日購入したビールには値段がついていたのだが、つまみに買ったおせんべには値段がついてなかった。おばあちゃんは困ったようすだったが、私が「200円くらいじゃないの?」と言うと「じゃ200円にしとくか」とあっさり値段が決まってしまった。どうみても100円くらいにしか見えなかったのだが、まぁ、適当にやるのが田舎暮らしの共同的生活思想なのだろう、という妙な納得で店を後にした。

 ところで、磯場を午前中で離れたのは、実は我々の自然別荘に隣接するところに某高級リゾート別荘地もあるのだが、この中にあるリゾートホテルの日帰り温泉に入浴するためだ。温泉無しの伊豆行は画竜点睛。これまでの過去2度の別荘行で心残りだったことが今年は実現できそうだ、ということで心は逸っていたのだ。この時は、そもそもの別荘行目的の「縄文人的生き方」など忘れたかのように、俗人となり果てていた。入浴料700円(タオル無し)は結構安い。泉質も単純アルカリで、近くに源泉がある。カウンター女史から、「本日ホテルは満室ですので日帰り入浴の方は1時間だけです」というちょっと嫌味な説明も気にかからず、さっそく小ぶりな、しかし、しっかりしたヒノキ湯に入る。もちろんかけ流しだ。昨夜の自然別荘の寝床は、地面からの冷気が高価なシュラフを突き抜けて肩と腰、背中を攻撃して来たのだが、温泉はこれをゆっくりと癒してくれた。そして、浴室からの眺めは真正面に海に浮かぶ利島がくっきり見える。まさに、至極である。「俗人もイイものだ」と転向した考えを持ちそうになる。しかし、まさにその瞬間。高級ホテルの入浴室窓に切り取られた空間からの眺望と我が自然別荘の淵が切り取る空間からの眺望が頭と心のなかで対比される。片方は身体は気持ちが良いが心の深淵を覗けない。もう片方は身体は厳しさにさらされるが心の深淵を覗くことができそうだ。この矛盾の解決をどこ求めようか、という疑問が湧いてくる。このような「ああでもない、こうでもない」という複雑怪奇な矛盾満載の問答を私は結構楽しむものだが、観念に自らをぶち込む生き方を否定しない私に対し、三森師匠の自然別荘生活における温泉考は単純明快である。「温泉に入ると疲れるから(自然別荘での生活には)必要ない」と一言。そうなのだ。至極の湯に入ったあと自然別荘に戻った私は、夜の宴会の準備どころか、義務としての“薪探し”もつらいほどにまったく身体が弛緩してしまった。師匠がシュラフ無しの生活に体をなじませるのとは反対に、まさに体がもとめる甘えにさらされた私は「風邪引き一歩手前」状態になる。これが、「う~ん、生きるとは実に奥が深いなぁ」と納得できた二日目の出来事だった。

 この夜は、毎年元旦にこの自然別荘を訪れる三森師匠の友人、伊東市在住の彫刻家の長野氏が夕刻に到着合流し、体調回復した師匠と私の3名での宴会となる。長野氏もなかなかユニークな方だ。彼が作る彫刻は芸術的と言うより実際的なものらしいが、氏自身はまた三森師匠とは違う現代的芸術思考があるようだ。自然別荘での話題は非常に豊富で、話が多岐に渡るのが面白い。都会生活における情報機器やその他の媒介物を通した話ではなく、自然素のままの話が心の世界に響くような感覚に捉われる。別荘の淵が切り取る空間に広がる星空と夜間飛行の飛行機の点滅が醸し出す情景は、現代に生きる人間の根源的意味を静かに教えてくれそうな気がする。昼間の温泉入浴のリバウンドも、冬の気候に対する人間自身がもつ存在の証としての抵抗力の熱源を徐々に回復させてきたようだ。もちろん、もう一つの人生の友である酒の力を少し借りてはいるが、、、。こうして二日目の夜も過ぎて行った。

 最終日の三日目の朝。この日は意外とあわただしい。夕方5時をめどに八王子に帰り着くためには、別荘を遅くとも9時前に出なければならない。三森師匠、長野氏と3名で朝日が昇るのを見届けた後は、師匠と長野氏は釣行の準備、私は撤収の準備を開始する。テントを片付け、シュラフをたたみ、昨日師匠が釣った鯛を生きたまま袋詰めにしてお土産として持ち帰る。その前に宿主への一宿一飯の義理として、最重要作業の一つである薪材の調達をする。岩場を登り、ウバメガシやナラが生い茂る森の中に入り、倒木や枯れ木を優先的に集め、最悪のこぎりで間伐を行う。これは自然別荘での掟でもある。すなわち、「なるべく自然の状態を保つ」「人為的痕跡を残さない」ということだ。したがって、別荘の焚火で持参したゴミを焼くことはもってのほかだ。これは「環境を守る」と言う現代的高尚な態度と言うことではなく、あくまでも別荘に仮住まいする漂白民としての基本的“防衛術”なのだ。この掟は重要必須だ。私も3度目の別荘行でその意義を認めることが出来た。午前8時半に少々センチメンタルな気分に捉われながらも別荘を撤収する。ここから下田駅へ向かうバス停まではおよそ1時間の徒歩行だ。昨日まで過ごしたわずか二日間とは言え、濃い時間を思い返しながらの徒歩行は心地よい。途中で、サーファーで賑わう浜辺で小休止する。バス停で出会った老婆は去年も同じところでひなたぼっこしていた。「こんにちは。去年もお会いしましたね」と言うと、「ああそうだったかね」と答えてくれた。バスを待つ30分ほどの間に、老婆の昔話を聞く。バス停前にある小学校は母校だそうだ。途中で浅草へ出たこともあったが人生のほとんどをこの地で暮らしたという。

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「平和」である。後で聞いた情報だったが、元旦にトルコでテロがあったという。世界は広い。また世界は絶えず動いている。「人は何のために生きるのか!」多くの人が、民族が、国家が、その答えを様々に持ち出してくる。小さな個人的なミニトリップ、というより短くも“ジャーニー”と言った方が適切に思える今年の三が日だった。

2017年年頭に思うこと

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
震災以前から毎年のように「激変の年」などという言辞が年始を賑わしている今世紀ですが、今年は「変化」の表象が抽象から具象、言辞から行為、他人事から自分事へと、まさに「激変」を自らが自らの問題として捉えるべき年となると思えます。そのもっとも顕著な出来事の一つがD.トランプ次期米国大統領就任であることは日本国のみならず世界中の共通でしょう。トランプ就任を巡って右往左往している世界の状況は、やはり米国が世界を動かす唯一のエンジンとなっていることを示すものですが、彼が得意のツイッターでわずか数行つぶやいただけでTOYOTAの株が200円も暴落したという事実は象徴的な出来事のように思えます。就任前までにこの手法を使えば、彼は個人的に短期間に巨万の富を所有できるでしょう。また大統領としてのアメリカの利益確保も、ややこしい外交交渉取引を介在させることなくできることも証明しています。「そういう手法が長続きする訳がない」という反論はありますが、彼の役割は“維持”ではなく“破壊”です。対象が破壊されれば次の対象を狙うだけです。
昨年のニューズウィーク誌8月号に、元CIA諜報員のグレン:カール氏は「古代の賢人が警告してから2400年後、そして近代初の民主共和制の国アメリカが誕生してから240年後の今、賢者の警告を裏付けるようにトランプは出現し、アメリカの政治制度を破壊しようとしている」と記しました。彼の言う、“賢者の警告”とは古代ギリシアの哲学者プラトンの『ゴルギアス』に出てくるカリクレスの「すぐれた者は劣った者よりも、また、有能な者は無能な者よりも、多くを持つことこそが正しい」「正義とはつねにそのようにして強者が弱者を支配し、強者は弱者よりも多く持つという仕方で判定されてきた」という故事を指していると思われますが、「トランプがそうする」、と言う前に世界は既にそのような状況にあったのであり、トランプがそのことを顕在化させたということではないでしょうか。富の一極集中、格差貧困の拡大は先進国、新興国問わず国と言う枠内でも顕著に起きていることです。私から言えば、トランプもオバマも同じであり、これまで隠れてやっていたことをもう隠すことが出来なくなった。民主主義と言う隠れ蓑の化けの皮がはがれて来た。グレン・カール氏が言うようにトランプの破壊はまさに民主主義の破壊であり、逆に言えば、民主主義がその限界を呈した、とも言えるでしょう。いやもっと正確に言う必要があります。我我が「民主主義」と考えているものが破壊される、と言うべきかもしれません。「民主主義」は歴史的に見れば確固として固定された概念ではなく変遷しています。先述のプラトンは民主制に懐疑をもっており、「万事に関して知恵があると思う、万人のうぬぼれや法の無視が、わたしたちの上に生じ、それと歩調を合わせて、万人の身勝手な自由が生まれてきた。思うに、思い上がりのために、自分よりすぐれた人物の意見をおそれないということ、まさにこのことこそ、悪徳ともいうべき無恥であり、それは、あまりにも思い上がった身勝手な自由から生じてきている」(プラトン『法律』)と述べています。古代と現代の違いを超えて共通するように思えます。
さて、止めどもない記述になってしまいましたが、冒頭の「激変」に立ち戻れば、我々は誰一人として変化の大波から逃れる術は無く、我々を守るものと考えられたもの、例えば「国」「法律」「制度」はその根拠を失うことでしょう。この変化に立ち向かうには、万人共通の手段或いは武器などなく、我々一人一人自身が受け止め、立ち向かい、そして闘うしかありません。外部注入的価値観を一度破壊し、内面創発的価値観を打ち立てる時期に来ています。厳しいようですが、しかし、もともと人間の存在の根源的姿勢とはそのようなものではないでしょうか。トランプ登場という現象の裏側にあるもの、或いはその底流を流れるもの、そこに意識を傾ければ、これからの時代に対する御し方もまた少しづつ見えて来るように思えます。
≪低炭素ニュース&レポート2017年1月号より≫