『大菩薩峠』と八王子

今年は、DAIGOエコロジー村のある八王子が市制100周年を迎え、いろいろな催しが企画されています。東京オリンピックを見据えたスポーツクライミングのワールドカップも東京都では初と言うことでエコロジー村近くの総合体育館で5月に開催されるようです。知名度は全国区であるものの中味を問われるとなかなか的確なイメージを描写できない八王子ですが、目線をちょっと変えてみると意外な話題も提供してくれそうです。ご存じ中里介山の『大菩薩峠』。その36巻「新月の巻」に八王子の炭焼について記した部分があります。とりあえず介山が書いたそのままをちょっと記しましょう。
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「八王子在の炭焼はまた格別な風流でござる」
「炭焼?」
「阿呆いわずときなはれ、江戸で炭が焼けますかい」
安直兄いがたしなめると、ダニの丈次が、
「でも、八王子から出てきた炭焼だが、釜出しのいいのを安くするから買っておくんなせえと門付振売りに来たのを、わっしゃ新宿の通りでよく見受けしやしたぜ」
「ではやっぱり、江戸でも炭を焼くんだね」
「炭焼き江戸っ子!」
「道理で色が黒い!」
      ・・・・・・・・・・<略>・・・・・・
「君たち、まだ若い、そもそも武州八王子というところは、なめさんも先刻言われた通り、新刀の名人繁慶もいたし、東洲斎写楽も八王子っ子だという説があるし、また君たちにはちょっと買いきれまいが、二代目高尾と言う吉原きってのおいらんも出たし、それから君たち、いまだに車人形というものを見たことはあるめえがの------そもそも・・・・」
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とその後、八王子にまつわる人物名が、鬼小島靖堂・鎌倉権五郎影政・尾崎咢堂・塩野適斉・桑原騰庵・近藤三助・落合直文など、私も知らぬ名前が結構出て来ます。圧巻は徳富蘆花を芋虫呼ばわりしている個所です。
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「君たち、八王子八王子と安く言うが、そもそも八王子という名前の出所来歴を知るめえな。・・<略>・・そもそも八王子と言う名は法華経から来ているんだぜ。法華経のどこにどう出ているか、君たちいっぺんあれを縦から棒読みにしてみな、すぐわかることだあな。ところがものを知らねえ奴は仕方のねえもんで、近ごろ徳富蘆花という男が、芋虫のたわごとという本を書いたんだ、その本の中に、ご丁寧に八王子を八王寺、八王寺と書いている。大和の国には王寺と言うところはあるが、八王子が八王寺じゃものにならねえ、蘆花と言う男が、法華経一つ満足によんでいねえということが、これでわかる・・・・」
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介山が八王子の炭(案下炭)をこのような形で”評価”してくれたことは素直に嬉しいですね。東洲斎写楽八王子説も写楽自身が謎に富んだ人物でもあり、信憑性はともかくも話として面白いです。また花魁高尾太夫は十一代までいたようですが、二代目は仙台高尾といい、陸奥仙台藩主伊達綱宗の身請け話を「他に好きな男(間夫)がいるから」と袖にしたために惨殺された、という話があります。小説『大菩薩峠』は未完の長編で、登場人物の彷徨いをモチーフにしているという指摘もありますが、八王子と言う町は今昔、流浪の民或いは漂白民が彷徨った町ではないか、と言う気がします。こう言う私も自称彷徨人ですが、彷徨人であるプライドを捨てることなく住むことが出来る町が八王子の目に見えない魅力なのではないか、と最近よく考えます。人間の業を30年にかけて描こうとした中里介山ですが、まだ読了に及んでいない彼の『大菩薩峠』を今年は一年かけて読んでみたいと思います。

トランプ大統領就任演説考

トランプ就任演説はリアルタイムに、NHKの同時中継番組、同時通訳を聞いたが、通訳者のレベルの問題なのか、或いは事前のバイアス統制があったのか、なかなか要領を得ない浅薄な通訳だった。その後、各方面から就任演説全文が書き下ろされたが、それを読むと、今回のトランプ大統領就任の歴史的な意義を感じざるを得ない。ドナルド・トランプという人物自体の評価は、残念ながら彼に対する知識、或いは彼自身の手腕というものをまだ実際に見たことが無い為、想像するしかないが、彼のような人物がこの時点の歴史において登場した、という観点と意味から彼の就任演説を読解すると、やはり大きな歴史の転回というものが見えて来る。また、そこから、トランプという個人評価も逆照射出来うるのではないか、と思う。演説全文から気になる点を箇条書きにして、私なりの評価をしてみた。

★従来の大統領なら誰でも就任する先のワシントンD.C.こそが、彼の権力の拠り所となる象徴であり且つアメリカ支配の頂点であるが、それを国民と対比させ、しかも「権力」の移行を行うことを宣言した。これは米国史上初めてのことではないだろうか。いわば、“クーデター政権”と言っても良いのではないか。

  • 「ワシントンにいる一部の人たちだけが政府から利益や恩恵を受けてきた。」

★一部の者とはEUも含め、いわゆる富を独占するエスタブリッシュメントのことを指すと思われる。「トランプ自身もその一員ではないか!」という反論もあるようだが、表層的な資産だけ見るのではなく、世界経済支配構造の核心領域に位置しているかどうかで判断すべきだろう。少なくともトランプは“外れ”或いは“異端”であるのは間違いないだろう。

  • 「ワシントンは繁栄したが、国民はその富を共有できなかった。」
  • 「権力層は自分たちを守ったが、アメリカ市民を守らなかった。」
  • 「アメリカ全土で苦しんでいる家族への祝福は、ほとんどなかった。」

★これらの発言は、エスタブリッシュメント権力による現実的な弊害として、国民或いは市民、家族という比喩的概念で訴えた発言だが、「あなた方の現実がこんなにも苦しい原因は一部の支配者のお蔭だ!」ということだろう。

  • 「本当に大切なことは政府が国民により統治されることである」
  • 「2017年1月20日は、国民がこの国を治める日として、これからずっと記憶に刻まれる」
  • 「国は国民に奉仕するために存在している」

★この発言を根拠に、青山学院准教授の米山明日香は、某報道番組でケネディ演説と対比させて「大統領就任演説史上最低」「教養がない」と酷評したが、彼女は「国民の国家に対する責任」を強調し、それを米国民主主義の根幹と言っているのだが、トランプの発言は、「政府(ガバメント)は国民(ネイション)が統治するものである」という主旨であり、「国は国民に奉仕するために存在」であるという部分は、日本国憲法15条の国家公務員条項の理念と被るものだろう。ちなみに、米山の言う「国民の国家に対する責任」とは、安倍晋三が目論む改憲の要諦でもある。このような観点からも、このトランプ発言は私は納得できるものである。

  • 「母親と子供は都市部で貧困に苦しみ、工場は錆びき、アメリカ中に墓石のごとく散らばり、教育は高額で、若く輝かしい生徒たちは、知識を習得できていない。犯罪、ギャング、麻薬があまりにも多くの命を奪い、花開くことのない可能性をこの国から奪っている。」

★中間層或いは底辺層の状況をこれほど具体的な表現で現した大統領演説はなかったのではないか。ちなみに名演説のオバマは就任時「家を失い、仕事は減り、商売は行き詰まった。医療費は高過ぎ、学校制度は失敗している。」という抽象的センテンスしか言ってない。人間が崇高な表現に酔うことも事実だが、現実のありのままの表現に共感することも亦事実だ。

  • 「何十年もの間、私たちはアメリカの産業を犠牲にし、外国の産業を豊かにしてきた。」
  • 「他の国々を豊かにしたが、自国の富、力、自信は、地平線のかなたへ消えた。ひとつずつ、工場が閉鎖され、この国を去った。数百万人のアメリカ人労働者が置き去りになることなど考えもしないで、そうした。」
  • 「中間層の富が、その家庭から奪われ、世界中に再分配された」

★これまで「善的行為」という神学的見地からのアメリカの対外政策の間違いを批判した発言として捉えることができる。「アメリカもそのことで利益を十分得ているのではないか!」という反論を考慮したうえで、そのような反論には「ではその利益は一体どこへ行ったのだ?」という再問いかけの答えが「ワシントンにいる一部の人たちだけが政府から利益や恩恵を受けてきた。」であり「ワシントンは繁栄したが、国民はその富を共有できなかった。」だ。

  • 「私たちは今日、ここに集まり、新しい決意を発し、すべての街、すべての外国の首都、すべての政権にそれを響かせる」
  • 「今日、この日から、アメリカ第一のみになる。アメリカ第一だ。」
  • 「貿易、税金、移民、外交についてのすべての決定は、アメリカの労働者と家族の利益のために下される。」
  • 「他国の暴挙から国境を守らなければなりません。彼らは私たちの商品を生産し、私たちの会社を盗み、私たちの仕事を破壊している。」
  • 「保護こそが偉大な繁栄と力に繋がる」

★まさにトランプ就任演説の核心=キモの部分だろう。これまでのエスタブリッッシュメントに支配されていた層への具体的なアピールだ。「保護主義」「モンロー主義」の宣言と見ても良い。演説の最初に「権力の移行」を宣誓し、その後にその対象としての国民の今ある現状を具体的に述べ、そしてここで檄を飛ばす、という三段論法は、なかなか良く練られた演説である事をうかがわせる。「保護は戦争を招く」という一般論となったことを逆転させ、「保護こそ繁栄(を招く)」と述べたことは重要だ。

  • 生活保護を受けている人たちに仕事を与え、アメリカの労働者の手と力で国を再建する」

★原文「worker」だが、アメリカでは「ワーカーとレイバー」を区別するので、トランプの頭の中にいわゆる左翼的言辞としての「労働者階級」の意識はないだろう。しかし、「働くものの力で国を再建する」という表現は、少なくとも戦後、冷戦を経て資本主義が唯一の社会経済システムとなっり、その先導者でもあった米国において、このような転換が起こるとすれば、それはやはり「革命的」と言わざるを得ない。

  • 「私たちは2つの単純なルールに従う。アメリカ製の商品を買い、アメリカ人を雇うことだ。」

★「保護主義」の具体的な表現を分かりやすく説明したものだ。鎖国保護主義は別のものであり、要は経済成長或いは維持の基本的な力点を外に求めるか(外需)、内に求めるか(内需)の違いである。そういう意味では「保護主義のほうが内需を拡大し経済が成長するので、逆に輸入が増える。」(中野剛志:対談集「グローバル恐慌の真相」)という経済的主張もある。「保護主義」が戦争を招いた大きな要因に、「情報(の無さ)」があると思われる。しかし、インターネットと言う歴史的革命的コミュニケーション技術の進展は、単純に「保護=戦争」という観念を破壊するだろう。各国が、少なくとも先進国において内需主導型へ移行し、且つICT技術の駆使により、保護主義の弊害を消去させることは可能に思える。

  • 「すべての国には自国の利益を優先させる権利があることを理解する」

★トランプをヒットラー再来とする主張もあるが、この言辞を読む限り、その心配はないように思える。この言説の後には多分、「だから貴方たちも自分の国のことは自分でやれ」という意味も含まれるのだろう。

  • 「私たちは自分たちの生き方をすべての人に押し付けることはしないが、模範として輝やかせたいと思っている。」

★ここにアメリカのプライドを語っている。

  • 「私たちは古い同盟関係を強化し、新たなものを形づくる」

★ここは、なかなか深読みが出来ない個所だ。わが属国政府はこの言辞に胸をなでおろすかも知れないが、「新たなもの」の意味をどうとらえるのだろうか。

  • イスラム過激派のテロに対し世界を結束させ、地球上から完全に根絶させる。」

★深読みする評論家の中には、「軍産複合体とISは裏でつながっており、それをCIAが手助けしていることに対するトランプ側からの宣戦布告」(国際政治評論家:田中宇氏)と見る向きもある。私はそこまではわからないが、ロシア・プーチンとの関係が今後どのように進展するかをみれば、それなりに見えて来るだろう。

  • 「私たちの政治の基盤は、アメリカ合衆国への完全な忠誠心だ。」
  • 「私たちは隠さずに思っていることを語り、相違について討論するが、いつも団結を求めなければならない。」
  • 「国家は努力してこそ存続する。口ばかりで行動が伴わない政治家をこれ以上受け入れることはできない。」
  • 「意味のないお喋りは終わりを迎える時だ。今、行動の時が来ている。それはできない、と言うのはやめよう。どんな課題も、心を開き、戦い、アメリカの精神を持てば、乗り越えられる。」

★とにかく選挙中から「行動」を訴えてきたトランプだが、演説の締めくくりでこれまでのエスタブリッシュメント支配を再度批判し、自らの政権の基本的在り方を「行動」と位置付けており、トランプの本気度が伺えるところだ。

  • 「私たちは、新しい時代の誕生に立ち会っている。」

★トランプ自身が歴史認識上でこのような発言をしたかどうかはわからないが、これまでの言辞から見て、素直に納得せざるを得ない個所だろう。

  • 「黒い肌、褐色の肌、白い肌、誰であろうと、同じ愛国心の赤い血が流れている。」
  • 「私たちは同じ輝かしい自由を享受している。」
  • 「子供がデトロイトの都市部で生まれようと、ネブラスカの風の吹く平原で生まれようと、同じ夜空を見上げ、同じ夢を心に抱き、同じ全知全能の創造主によって生命の息吹が吹き込まれる。」
  • 「皆さんは再び無視されることは決してない。皆さんの声、希望、夢が、アメリカの歩む道を決める」

★最後は、融和と団結という従来の就任演説に見られる言辞が続いたが、ここでも「再び無視されることは決してない」という檄と決意が述べられる。トランプ支持派は感極まり、涙も出るところだろう。

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さて、長々と、独自の勝手なトランプ就任演説分析を行って来たが、演説後の彼の素早い行動とその内容から見ても、世界は本当に大きく変わるだろうと思える。先日の報道ステーションで三浦瑠璃はトランプをマーケッターという観点から「もしかしたらアメリカ一人勝ちもあり得る」と言ったが、しかし、その一人勝ちがどこまで継続するか、単なる瞬間的状況に終わるのか、それはわからないがあながちあり得ないことではないと思える。

いずれにせよ、「今後どうなるのだろうか」と言う予測屋的立場からは何も生まれないということだ。「これからはこうする」というまさに主体的態度をコアとする、言い換えればトランプの言う「意味のないお喋りは終わりを迎える時だ。今、行動の時が来ている。」ということだろう。

※演説全文参考:ハフィンポスト日本版『 トランプ大統領就任演説「今日、この日から、アメリカ第一のみ」』より

『世間虚仮・唯仏是真』

2017年の世界はトランプ新大統領就任で益々不透明な状況へと突入するようです。誰もが先に不安・不信を感じながら目の前の可視化できるものだけを信じ(ようとす)る。しかし可視化されたものの実体も果たしてあるのかどうかわからない。ただ、イメージだけが先行し、目の前にある実体とおぼしきものを無理やりイメージと合体させる。。。。
トランプにまつわる報道やそれに伴う現象を見ていると、誰もが「虚仮(こけ)にされている」という言葉がぴったりのような気がします。
 「虚仮」は仏教用語ですが、「実体のないもの」「ウソ」「空しい」などの意味があります。ヤクザが派手な格好をして派手な車で乗り付け脅すことを「虚仮脅し」と言いますが、脅される側は、服装や車から勝手にイメージを作りあげ、そこにヤクザは言葉巧みに人間の心理を突いてくる訳です。ヤクザに限らず政治家にもそのような人種は結構いるようですが。。。
テーマの『世間虚仮・唯仏是真(せけんこけ・ゆいぶつぜしん)』とは、聖徳太子の言葉です。直訳すれば、「世間の人の心は嘘ばかりで 真実は無い。ただ、仏の教えのみが真実である」という意味ですが、トランプ現象に対して、「メディアが・・・・」「でも現実は・・・・」「だって常識で考えれば・・・・」などと自我中心的に解釈し、右往左往する様が「世間虚仮」です。「株価」「為替」に自らの生活を重ね合わせて判断することも「世間虚仮」でしょう。そう考えると我々の過ごす時間は殆ど、この「虚仮」というものにまとわりつかれているようです。
 さて、新しい年『酉年』は変化が起きる年と言われていますが、私たち一人一人にも大きな変化の波が来そうです。できれば、「虚仮」ではなく「是真」と言える変化を遂げたいと思うものです。

2017年正月自然別荘滞在記

 今回で3度目の南伊豆某所にある洞窟(以後”自然別荘”と称す)で三が日を過ごした。今までの中で一番暖かで穏やかな日和に恵まれた。宿主の縄文人、三森師匠は前日大晦日の日に先に投宿開始。私は一日遅れて元旦の早朝六時高尾を出発、現地に正午きっかりに到着する。まずは寝床の確保が最初の作業だ。岩石ごろごろの所ではあるが私のテント張場は決まっている。別荘の入口付近に張るのは、寝床から見る満点の星空とはるか太平洋から登る朝日の鑑賞にうってつけだからだが、夜間はどうしても冷えるので夜中の生理現象に備える意味もある。宿主は元旦早朝から別荘近くの磯場で釣り三昧の時間を過ごしているとみえ、午後5時過ぎて辺りも暗くなるまでもまだ帰着していない。やっと6時過ぎに師匠が帰荘。獲物はメジナとカワハギ。早速たき火を囲んで二人で宴会を始めるも師匠は風邪気味とかで早々と就寝に及び、一人残された私は持参したウイスキー片手に別荘からのオリオン座とその直下に赤青に点滅するシリウスを眺めながら、一年振りの別荘での新年の夜をゆっくりと堪能する。

 さて翌朝二日。初日の出ではないが、海上から厳かに昇る太陽を期待しながら、暗いうち午前五時に起床。焚き火の傍らで朝食の焼き餅を焼いていると、三森師匠もやおら起き上がる。聞くと、シュラフを忘れたとのことで、風邪気味と言うこともうなづける。縄文人の師匠とは言え、真冬の別荘でシュラフ無しで過ごすことはさすがにきついのではないかと思いきや、師匠いわく。「もう体が慣れて来たから大丈夫!」とのこと。やはり縄文人の評価は正しいようだ。翻って私は、つとにやらなくなった結構高価な登山用具一式を持ち込み、まさに道具に頼る現代人。今年も改めて師匠からは縄文的生き方を学ばせてもらった。実は別荘に来る目的の一つにこの「縄文的生き方」を少しでも体得しようという動機もあるのである。そうこうしているうちにいよいよ朝日が昇る瞬間が訪れる。別荘奥から眺める太陽は、別荘の淵が切り取る空間のちょうど真ん中から昇って行く。その太陽に照らされ別荘の中も徐々に赤く染まって行く。この別荘の状況から見てこのような状態(洞窟)になったのは伊豆東部火山群の爆発か富士山爆発の影響によるものと思われるが、少なくとも500年から1000年、否もっと前の縄文時代に遡ることも出来るかもしれない、、、、などと想像してみるが、古の人もこの別荘からの神々しい昇陽を眺めたのではなかろうか。そう思うと、今この瞬間に古人と時間を超えて一体となったような気になる。

 二日目の別荘生活はこのように荘厳な心境から始まったのだが、一転して師匠と私は、釣行の準備をし、別荘近くにある通称“竜宮城”と地元の人が詠んでいる磯場へ出かける。実は縄文人たる三森師匠だが、サングラスにちょっと高価そうな竿、ワークマンで買ったというジャンパー。その釣行スタイルはまさに今風アングラーではないか!「縄文式釣はやらないのか?」という私の質問に答えて、「そんなんで釣れるわけはない!」と合理的且つ科学的(と思われる)返事が軽く返される。なるほど!現代において縄文式スタイルを貫くためには必要に応じて“現実主義”を取り入れることも必要なのだ、と私は勝手に解釈、これまた新しい教えとして納得する(笑)。さて釣行の結果だが、私は持参した渓流用ののべ竿に単純な浮き仕掛けにもかかわらず、メジナとフグを釣り上げることが出来た。これで今夜のおかずはとりあえずゲットした訳だ。この日は、私は午前中で磯場を離れる。ちなみにこの磯場は満潮時には渡れないのだが、干潮時には隣接するサンドスキー場の客たちも気軽に渡れるので、この日も結構な人たちでにぎわっていた。さて重要な作業を行わないといけない。別荘で何と言っても重要な物資は水である。持参した2Lペットボトルに集落の神社の御手水舎から頂く。もちろんその前にお賽銭を上げるのが常識だ。ついでに集落民宿の酒屋へ寄り、夜の宴会用に缶ビールを2本購入。ここの店主は80過ぎのおばあちゃんだが、口達者でいろいろ話をする。この日購入したビールには値段がついていたのだが、つまみに買ったおせんべには値段がついてなかった。おばあちゃんは困ったようすだったが、私が「200円くらいじゃないの?」と言うと「じゃ200円にしとくか」とあっさり値段が決まってしまった。どうみても100円くらいにしか見えなかったのだが、まぁ、適当にやるのが田舎暮らしの共同的生活思想なのだろう、という妙な納得で店を後にした。

 ところで、磯場を午前中で離れたのは、実は我々の自然別荘に隣接するところに某高級リゾート別荘地もあるのだが、この中にあるリゾートホテルの日帰り温泉に入浴するためだ。温泉無しの伊豆行は画竜点睛。これまでの過去2度の別荘行で心残りだったことが今年は実現できそうだ、ということで心は逸っていたのだ。この時は、そもそもの別荘行目的の「縄文人的生き方」など忘れたかのように、俗人となり果てていた。入浴料700円(タオル無し)は結構安い。泉質も単純アルカリで、近くに源泉がある。カウンター女史から、「本日ホテルは満室ですので日帰り入浴の方は1時間だけです」というちょっと嫌味な説明も気にかからず、さっそく小ぶりな、しかし、しっかりしたヒノキ湯に入る。もちろんかけ流しだ。昨夜の自然別荘の寝床は、地面からの冷気が高価なシュラフを突き抜けて肩と腰、背中を攻撃して来たのだが、温泉はこれをゆっくりと癒してくれた。そして、浴室からの眺めは真正面に海に浮かぶ利島がくっきり見える。まさに、至極である。「俗人もイイものだ」と転向した考えを持ちそうになる。しかし、まさにその瞬間。高級ホテルの入浴室窓に切り取られた空間からの眺望と我が自然別荘の淵が切り取る空間からの眺望が頭と心のなかで対比される。片方は身体は気持ちが良いが心の深淵を覗けない。もう片方は身体は厳しさにさらされるが心の深淵を覗くことができそうだ。この矛盾の解決をどこ求めようか、という疑問が湧いてくる。このような「ああでもない、こうでもない」という複雑怪奇な矛盾満載の問答を私は結構楽しむものだが、観念に自らをぶち込む生き方を否定しない私に対し、三森師匠の自然別荘生活における温泉考は単純明快である。「温泉に入ると疲れるから(自然別荘での生活には)必要ない」と一言。そうなのだ。至極の湯に入ったあと自然別荘に戻った私は、夜の宴会の準備どころか、義務としての“薪探し”もつらいほどにまったく身体が弛緩してしまった。師匠がシュラフ無しの生活に体をなじませるのとは反対に、まさに体がもとめる甘えにさらされた私は「風邪引き一歩手前」状態になる。これが、「う~ん、生きるとは実に奥が深いなぁ」と納得できた二日目の出来事だった。

 この夜は、毎年元旦にこの自然別荘を訪れる三森師匠の友人、伊東市在住の彫刻家の長野氏が夕刻に到着合流し、体調回復した師匠と私の3名での宴会となる。長野氏もなかなかユニークな方だ。彼が作る彫刻は芸術的と言うより実際的なものらしいが、氏自身はまた三森師匠とは違う現代的芸術思考があるようだ。自然別荘での話題は非常に豊富で、話が多岐に渡るのが面白い。都会生活における情報機器やその他の媒介物を通した話ではなく、自然素のままの話が心の世界に響くような感覚に捉われる。別荘の淵が切り取る空間に広がる星空と夜間飛行の飛行機の点滅が醸し出す情景は、現代に生きる人間の根源的意味を静かに教えてくれそうな気がする。昼間の温泉入浴のリバウンドも、冬の気候に対する人間自身がもつ存在の証としての抵抗力の熱源を徐々に回復させてきたようだ。もちろん、もう一つの人生の友である酒の力を少し借りてはいるが、、、。こうして二日目の夜も過ぎて行った。

 最終日の三日目の朝。この日は意外とあわただしい。夕方5時をめどに八王子に帰り着くためには、別荘を遅くとも9時前に出なければならない。三森師匠、長野氏と3名で朝日が昇るのを見届けた後は、師匠と長野氏は釣行の準備、私は撤収の準備を開始する。テントを片付け、シュラフをたたみ、昨日師匠が釣った鯛を生きたまま袋詰めにしてお土産として持ち帰る。その前に宿主への一宿一飯の義理として、最重要作業の一つである薪材の調達をする。岩場を登り、ウバメガシやナラが生い茂る森の中に入り、倒木や枯れ木を優先的に集め、最悪のこぎりで間伐を行う。これは自然別荘での掟でもある。すなわち、「なるべく自然の状態を保つ」「人為的痕跡を残さない」ということだ。したがって、別荘の焚火で持参したゴミを焼くことはもってのほかだ。これは「環境を守る」と言う現代的高尚な態度と言うことではなく、あくまでも別荘に仮住まいする漂白民としての基本的“防衛術”なのだ。この掟は重要必須だ。私も3度目の別荘行でその意義を認めることが出来た。午前8時半に少々センチメンタルな気分に捉われながらも別荘を撤収する。ここから下田駅へ向かうバス停まではおよそ1時間の徒歩行だ。昨日まで過ごしたわずか二日間とは言え、濃い時間を思い返しながらの徒歩行は心地よい。途中で、サーファーで賑わう浜辺で小休止する。バス停で出会った老婆は去年も同じところでひなたぼっこしていた。「こんにちは。去年もお会いしましたね」と言うと、「ああそうだったかね」と答えてくれた。バスを待つ30分ほどの間に、老婆の昔話を聞く。バス停前にある小学校は母校だそうだ。途中で浅草へ出たこともあったが人生のほとんどをこの地で暮らしたという。

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「平和」である。後で聞いた情報だったが、元旦にトルコでテロがあったという。世界は広い。また世界は絶えず動いている。「人は何のために生きるのか!」多くの人が、民族が、国家が、その答えを様々に持ち出してくる。小さな個人的なミニトリップ、というより短くも“ジャーニー”と言った方が適切に思える今年の三が日だった。

2017年年頭に思うこと

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
震災以前から毎年のように「激変の年」などという言辞が年始を賑わしている今世紀ですが、今年は「変化」の表象が抽象から具象、言辞から行為、他人事から自分事へと、まさに「激変」を自らが自らの問題として捉えるべき年となると思えます。そのもっとも顕著な出来事の一つがD.トランプ次期米国大統領就任であることは日本国のみならず世界中の共通でしょう。トランプ就任を巡って右往左往している世界の状況は、やはり米国が世界を動かす唯一のエンジンとなっていることを示すものですが、彼が得意のツイッターでわずか数行つぶやいただけでTOYOTAの株が200円も暴落したという事実は象徴的な出来事のように思えます。就任前までにこの手法を使えば、彼は個人的に短期間に巨万の富を所有できるでしょう。また大統領としてのアメリカの利益確保も、ややこしい外交交渉取引を介在させることなくできることも証明しています。「そういう手法が長続きする訳がない」という反論はありますが、彼の役割は“維持”ではなく“破壊”です。対象が破壊されれば次の対象を狙うだけです。
昨年のニューズウィーク誌8月号に、元CIA諜報員のグレン:カール氏は「古代の賢人が警告してから2400年後、そして近代初の民主共和制の国アメリカが誕生してから240年後の今、賢者の警告を裏付けるようにトランプは出現し、アメリカの政治制度を破壊しようとしている」と記しました。彼の言う、“賢者の警告”とは古代ギリシアの哲学者プラトンの『ゴルギアス』に出てくるカリクレスの「すぐれた者は劣った者よりも、また、有能な者は無能な者よりも、多くを持つことこそが正しい」「正義とはつねにそのようにして強者が弱者を支配し、強者は弱者よりも多く持つという仕方で判定されてきた」という故事を指していると思われますが、「トランプがそうする」、と言う前に世界は既にそのような状況にあったのであり、トランプがそのことを顕在化させたということではないでしょうか。富の一極集中、格差貧困の拡大は先進国、新興国問わず国と言う枠内でも顕著に起きていることです。私から言えば、トランプもオバマも同じであり、これまで隠れてやっていたことをもう隠すことが出来なくなった。民主主義と言う隠れ蓑の化けの皮がはがれて来た。グレン・カール氏が言うようにトランプの破壊はまさに民主主義の破壊であり、逆に言えば、民主主義がその限界を呈した、とも言えるでしょう。いやもっと正確に言う必要があります。我我が「民主主義」と考えているものが破壊される、と言うべきかもしれません。「民主主義」は歴史的に見れば確固として固定された概念ではなく変遷しています。先述のプラトンは民主制に懐疑をもっており、「万事に関して知恵があると思う、万人のうぬぼれや法の無視が、わたしたちの上に生じ、それと歩調を合わせて、万人の身勝手な自由が生まれてきた。思うに、思い上がりのために、自分よりすぐれた人物の意見をおそれないということ、まさにこのことこそ、悪徳ともいうべき無恥であり、それは、あまりにも思い上がった身勝手な自由から生じてきている」(プラトン『法律』)と述べています。古代と現代の違いを超えて共通するように思えます。
さて、止めどもない記述になってしまいましたが、冒頭の「激変」に立ち戻れば、我々は誰一人として変化の大波から逃れる術は無く、我々を守るものと考えられたもの、例えば「国」「法律」「制度」はその根拠を失うことでしょう。この変化に立ち向かうには、万人共通の手段或いは武器などなく、我々一人一人自身が受け止め、立ち向かい、そして闘うしかありません。外部注入的価値観を一度破壊し、内面創発的価値観を打ち立てる時期に来ています。厳しいようですが、しかし、もともと人間の存在の根源的姿勢とはそのようなものではないでしょうか。トランプ登場という現象の裏側にあるもの、或いはその底流を流れるもの、そこに意識を傾ければ、これからの時代に対する御し方もまた少しづつ見えて来るように思えます。
≪低炭素ニュース&レポート2017年1月号より≫

世界の矛盾

■<導入(起)>「世界唯一政府」か、「多様・多極分散型政府」か!

 前回「破壊と創造」について書きましたが、世界は「破壊と創造」だけではなく、同時に「統合と分裂」というベクトル軸も働いています。「分裂」と「破壊」、或いは「統合」と「創造」はそれぞれ感覚的には似ている類似語のようですが、その本質は全く違うものです。アリストテレス的に言えば、「破壊と創造」は質料(的)であり、「統合と分裂」は形相(的)です。アリストテレスは質料と形相について、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と述べましたが、私の解釈では、“形相こそ存在の本質”、即ち肉体ではなく魂(精神)こそが存在の本質と言えるものです。そのような観点から見れば、トランプ現象、或いは英国のEU離脱も、その底流にあるものは、まさに質料と形相の関係と言えます。トランプ現象を嘆く側は「統合」に解決を見出す輩であり、逆にトランプ現象を積極的に評価する側は「分裂」に解決を見出す輩です。しかし、どちらも精神的な闘いを行っている、と言えます。「人類の平和」という究極的な理念に向かって人間は進んでいる、というヘーゲル的解釈を歴史進展の基本とするならば、「統合」も「分裂」も相互に転倒(しながら進展)する関係、言い換えれば、相互に主語と述語になる関係です。ポジとネガ、陰と陽、+と-、男と女、、、、、、全てが主語になり得るし、また述語になり得るものです。すなわち、今の世界を記述するならば、世界政府を目指すのか、多様・多極な分散型政府を目指すのか、の闘いが行われつつある、ということです。人間は目が身体の前にある限りは前進するしかありませんが、どちらに転ぶにせよ、我々一人一人に突き付けられた“宇宙の神”からの根源的問いなのです。

■<展開(承)>「科学技術」という“宗教”を乗り越える「新たなルネッサンス

 世界は有史以来、「善」と「悪」が相互に入れ替わる歴史を刻んできました。中世ルネッサンスキリスト教(会)への疑問を投げかけ、そこにカオスが生じてあらゆる価値観が一斉に飛び出した時代です。その中の最も大きな価値観の結果の一つである「科学技術」を伴った産業革命はこの中世ルネッサンスの歴史脈略の中の出来事であり、また併行して様々に展開された「人間精神」としてのもう一つの大きな価値観の哲学的論争を経て出て来たものが、「資本主義」と「(科学的)共産主義」という二項対立、その結果として「ソビエト崩壊」、そして「資本主義の矛盾」というのが今日の世界の状況です。このことから私は、人類は今また新たなるルネッサンスの時代に入った、と思えてなりません。それは、中世ルネッサンスが乗り越えようとしたものが「宗教」であるとすれば、現代ルネッサンスが乗り越えるべきものも、まさに「科学技術」という名の「新たな宗教」ではないか、と思えるのです。「遺伝子組み換え」、或いは「AI人工知能」、また「再生細胞」、、、、、ありとあらゆる科学技術の“進歩”の中で、しかし、片方で「原発核兵器」「温暖化・環境破壊」「貧困・格差」も同様に“進展”しています。あまりにも「科学技術」を無原則に信奉する社会は、己の内面性としての精神世界までも科学技術という媒介を通してみるようになりました。確かに、科学技術は我々の感覚を飛躍的に伸ばし、知識という不可視の力を得ることができました。しかし、ガリレオ・ガリレイが視覚を物理的に拡大させた望遠鏡で地動説をゆるぎないものとしその延長に人類は電波望遠鏡で宇宙の限界(と人類が思っている)を知る一方、「マンハッタン計画」を見るまでもなく、我々の知識は人類を破滅させる数々の手段をも手に入れました。本来であれば、これらの科学技術をコントロールするはずの理性は、カネという仕組みを合理的(科学的)に媒介させうると信じる市場論理に翻弄されているではありませんか。人間は自らの内面の本当の理性の声を聞くことなく、「科学技術」という教義を標榜する国家という現代の教会の僕となっているのです。

■<逆転・転倒(転)>

 中世ルネッサンスと新たなルネッサンスの共通点は何か!言い換えれば、なぜルネッサンスなのか(でなければならないのか)!この問いは非常に根源的です。率直かつ反射的に解答するならば、それは「人間の回復」です。自らの内面にある声を自らが聞くことなく、「科学技術」を駆使した大きなメインシステム或いはサブシステムからの外部入力によって自己を構築している現代社会は、人体そのものの改造であり、いわばまさに“新人類”の出現の黎明期に差し掛かっていると言えます。まさに形相(精神)から質料(肉体)への逆転、即ち質料に従属する形相という状況が起きています。一方、現代の状況を、また世界を物理的観点ではなく、社会的観点から見た場合、まさに逆転現象の坩堝に陥っていると言えます。どういうことか!「親が子を殺す或いは子が親を殺す」「平和と言って戰爭を起し戦争に飽きて平和を唱える」「民主主義、人権と言いながら格差・貧困を生み出す」、、、、全てが言説の中で始まり、イメージが結果となる。そこには本当のリアリズム、まさに血と肉のリアリズムではなく、イメージのリアリズムしかありません。見よ!毎日流れるニュースの後に付け加えられる「株価」と「為替」。すべてイメージの産物ではありませんか!

■<決(結)論或いは解題(結)>

 今世界は大いなる歴史的矛盾の中にあります。グローバリズムを唱える国家というものをどう思われるだろうか。グローバリズムの本質は統合であり、国家の本質は分裂(分散)です。分かりやすく言えば、グローバリズムは結果として「世界統一政府」を思考するイデオロギーであり、国家は「独自性」を主張するならば、結果として「多様性」を認めるイデオロギーを持たなければなりません。片方で「TPP」という統合を唱えながら片方でアナクロな「明治憲法」という分裂(分散)を持ち出す安倍晋三氏の矛盾はまさにここにあるのですが、彼が中途半端或いはまったくゼロセンスの持ち主であることから、ある種のベール、意味不明を世間が受け入れざるを得ない、という側面があります。彼が、そうではなくて聡明且つ合理的な人物であれば、彼の言説と行動の矛盾はすぐ見破られるハズです。そういう意味では、彼は現代と言う歴史を代表する申し子(或いは鬼っこ)かもしれません。

さて、今回の決(結)論をそろそろ述べなければならないところに来ました。私の決論は、グローバリズムと国家が共に共存できる仕組みが必ずある、という確信です。それは、使い古された言葉ですが、「競争ではなく共生」というイデオロギーです。敢えてイデオロギーと言います。もし、AI或いは科学技術をその根本において認めるならば、「競争ではなく共生」のアルゴリズムを作れるハズです。そして「人間・人体改革(改造)」ではなく「人間・人体回復」であるならば、或いはそれを望むのであれば、「身の程を知る」空間と時間を作ることから始めれば良いのです。「身の程を知る」とは「自らが自らを自らによって知る」ということです。「イメージ」ではなく「リアリティ」としての己を知るということ。透明な無機質の情報だけが流れる人体ではなく、文字通り、血が流れ、肉でできた人体を通して思考するということ。そのような思考はある意味土着的なものです。肉体を通した精神がしっかりと思考する空間と時間に支えられた場所。

 はじめの議論に戻りましょう。トランプの一国主義、英国EU離脱、欧州各国或いはカナダにおける地域独立運動の勃発、日本における沖縄・北海道独立論、、、、などなど、分裂(分散)の動きをもっともっと加速させなければなりません。我我が固執する近代国家なるものはまだわずか200年足らずの秩序でしかありません。「世界唯一政府」的世界への志向と思考を拒絶し、「多様化・多極化分散型政府」への移行と意向を強化する方向へ踏み出す勇気を持つことを強く提案して、拙文に筆を置きます。

※<あとがき>

頭の中でぐるぐると回るものを文章にすること、言葉にすることの難しさを感じます。矛盾を描きその中から真理を掴もうという努力は有史以来数多くの賢者が行ってきましたが、彼らの意思と意志を受け継ぎまた次世代へ受け渡すことが、リアリティに生きる我々の根源的義務であるとすれば、それは一部学者、政治家、科学者、哲学者、宗教家だけのものではなく、この世に生を受けたありとあらゆる人々、それはすなわち私でありあなたであるという単純かつ当たり前な理屈に到達しました。そしてそのような私とあなたが存在できる空間と時間とはどのようなものなのか、が本稿を記述する主目的でした。この試みは今始まったばかりです。そういう意味では「始まりの始まり」と言える本稿です。

   ≪低炭素ニュース&リポート12月号投稿より≫

「近代国家」を乗り越える思考

思考の突破(ブレークスルー)は「現実を疑うこと」で可能になる。トランプ現象へのさまざまな反応を見ていると、現象(事実)の追随或いは事実を絶対前提条件とする思考しか見えて来ない。ここで言う事実とは、一つは「トランプが大統領になる」ということだが、もう一つ、あらゆる反応が「近代国家というものを絶対視する」ことから思考が始まっているということだ。「民主主義の危機」を叫ぼうと或いは「自由主義の危機」を嘆こうと、そこには「近代国家」という絶対的前提条件がある。

 近代以降、政治も経済も二つの世界大戦と二つのイデオロギー闘争を経て、「グローバル化」という国境を超える世界を創造するかに見えたが、「近代国家」という存在を超えるどころか、世界はいままた「国家」という枠組みを強調する動きに反転したように見える。しかし、実は「グローバル化」と言われたものは、「資本の自由化」ということであり、「カネ」に国境を付加する「関税」の撤廃を目指す「近代国家」と言う存在が改めて浮き彫りになった。この「近代国家」が目指すものが「世界の統一」であるならば、論理的には国家自身が自己否定の動きをするべきなのだが、彼らの動きは真逆だ。TPP或いは米国におけるNAFTAなどの自由貿易圏構築は、「近代国家」が企業の負託を受けて動くまさに企業の代理人化している実態を示した。EUの統合が理念としての「国家統合」を掲げながらも、欧州市場の創設という資本の論理の要請がその動機の中心であったことは、ドイツの独り勝ちとイギリスの離脱という結果を見れば、EUの各国家も企業の代理人としての役割を優先させていることは一目瞭然だ。

 さて、しかし、このような言説は旧聞に属する話であり、改めて確認する必要もないのだが、今回の「トランプ現象」の一つの定説的説明として、「グローバリズムVS反グローバリズム」或いは「エスタブリッシュメントVS反エスタブリッシュメント」、「保護主義VS自由貿易主義」挙句は「民主主義VS全体主義」というステレオタイプの論調に覆われているが、そこには「近代国家」という存在そのものに疑問を投げかける論評は皆無だ。考えてみれば、近代の世界の枠組み、或いは世界秩序の最小単位は一人の人間(個)でもなく、ある民族(種)でもなく、当然人類(類)でもない。それは共同幻想に集約された「近代国家」という一つの人工的な組織である。「近代国家」が前言の資本の代理人という役割と同時に、「国民」という共同幻想を振りまく装置という二面性を持たざるを得ないことの理由は、資本の論理が対象とするものがまさに人間そのものだからであり、言い方を変えれば人間がいない資本というものは存在理由がなくなる。資本の論理に見合う(適合する)人間集団を作ることが「近代国家」の役割でもあるのである。

 ところが、「国家の論理(ナショナリズム)」と「資本の論理(キャピタリズム)」は根本的に矛盾がある。すなわち、「国家の論理(ナショナリズム)」の最重要課題は自国の繁栄・発展であり、また他国との関係は自国を発展させるための手段(利用・搾取)であり、自国の発展の脅威となる他国はつぶすことになる。一方、「資本の論理(キャピタリズム)」にとって最重要課題は利益を得ること、利潤を最大化することであり、国内投資より国外投資先が利益が出るのなら、資本は遠慮なく効率の良い国へ動くことになる。仮にそこが自国にとって脅威になる国であろうが資本はその動きを止めない。それは、最近の日本と中国の関係をこの視点からみれば一目瞭然だ。近代に入りそのような「近代国家」が取った行動は、「資本の論理」と「国家の論理」が共にかみ合う侵略或いは植民地支配による「帝国主義」としての直接行動であったが、先述の二回の大戦が、そのような「帝国主義」的行動を規制するようになり、一見、「国家」による協調路線が世界を支配するようになった。それは国際連合であり、IMFであり、WTO、或いはCOPでもあり、またTPP、NAFTAでもある。その協調的動きはソ連邦崩壊により、加速度を増していき、いわゆる「グローバル化グローバリズム)」を招いた訳だが、しかしその本質はキャピタリズムによるナショナリズムの下僕化であった。イギリスのEU離脱は、まさにキャピタリズムに対するナショナリズム側の反動として起こったことであり、今回のトランプ現象も「資本の論理」と「国家の論理」の蜜月の破綻とともに、両論理の根本矛盾の露呈、対立としてみることができるだろう。

 さて、話を最初に戻すと、米国大統領選で、民主党のバニー・サンダースは1:99の論理から貧困・弱者側からの立場での反キャピタリズムを説いたが、しかし、それは「近代国家」を否定するものではなかった。それは彼が指名競争から敗れたのちヒラリー支持に回ったことでも明らかだ。現在の世界の陥っている状況の源流として、この二つの論理の矛盾があるにもかかわらず、一方だけの解消で矛盾が解決することはあり得ないだろう。しかし、トランプはこの二つの論理の矛盾を世界協調を目指す「近代国家」ではなく近代以前の古き良きアメリカの「一国主義」というある意味でウルトラC的思考転換で勝利したと言える。論評ではトランプ現象を単なる古回帰、或いは彼独特の個性から「全体主義」「独裁主義」などという表層的なものが圧倒的に多いが、トランプ個人の思惑はどうであれ、トランプ現象というものがその底流に「近代国家」の否定を含意するものであることを見抜く必要があるだろう。皮肉にもトランプのような反動主義者がある意味革命的な結果を作った訳だが、反トランプ的進歩派と言う存在があるとすれば、それは容易に想像できる層ではあるが、「近代国家」という縛りをとき解く思考を持たない限り、彼らの望むべき思いは益々遠ざかるを得ないだろう。「近代国家」とは世界的に見てもアメリカ、ヨーロッパ、日本を問わずまだ150年~200年前後の歴史しか持たない仕組でしかない。そのような仕組みに固執することは歴史発展においても停滞或いは障害以外の何物でもない。