男性<主流>文化から女性<主流>文化への転換

人類の歴史は、「男」と「女」という根源的2大本質から作られて来た。宗教的に言えば、アダムとイブの原罪から始まった。しかし、我々が確認できる歴史においては、この2大本質は一方的な従属関係、支配被支配関係に固定され、そこから作り出される人間の文化、特に広義的に解釈して、政治・経済・文明・科学・宗教・芸術、、、、など様々な人間が創りあげたシステムは、すべて「男」的な性質を有している。「男的な性質」について、ドイツの社会学ゲオルク・ジンメル(1858-1918)は、男性の性質を「客観的」「即物的」「分化・分業的」「専門的」、女性の性質を「主観的」「人格的」「全体的連帯性」と分析、男性は自己超越性をもち、女性は自己充足性をもっていると見たが、ジンメルの論に従うならば、例えば近代以降の科学の発達のベースには「男的な性質」があり、そこから作り出された社会システム(政治・経済・軍事・医療・芸術・・・・・)はいわば「男性OS(オペレーションソフト)」に基づいて作られているといえる。ここから一気に結論を言うとすれば、現在の社会システムにおける様々な誤謬の要因をこのOSとみるならば、これを「女性OS」に切り替えるという発想が出て来るのは必定である。確かに、近代以降においてはこの性差(ジェンダー)意識の課題は顕在化され、たとえば婦人参政権などに見られる「女性の権利」を社会システムに組み込む動きは活発にはなってきたが、これは女性性質を男性性質へ同化させるという限界或いはあらたな誤謬の要因を生む結果ともなっている。また性差の本質を固定せず、両性融合的な概念を打ち立てようとするジェンダーフリー思想、或いはフェミニズムなども起きているが、歴史の進歩法則としての弁証法を用いるならば、「正(男)・「反(女)」・「合(両性融合)」の流れに従い、近代以降の矛盾への対処として、「反(女)」の時代創出を図るべきと思われる。
ジェンダード・イノベーション」という言葉がある。アメリカのロンダ・シービンガー博士が提唱した概念だが、男女の性差を十分に理解し、それに基づいた研究開発をすることですべての方に適した「真のイノベーション」を創り出そう、というものだ。科学の歴史の中で、従来「性差」はほとんど認識されることなく、科学者たちは無意識のうちに同性である男性のみを基準として様々な研究開発を行ってきた。車のシートベルト設計や鎮痛薬の開発など、性差が顧みられていなかったことによる不具合が実は考えられていたよりもずっと深刻であることがわかり始めたのはつい最近のことだ。こうした性差認識の重要性を、シービンガー博士は科学史の中に隠されていた女性の存在を様々な角度から浮かび上がらせることで明らかにした。その業績はEU(欧州連合)の「女性と科学」政策に大きな影響を及ぼし、のちのジェンダーサミット発足の原動力となった。 (※科学技術振興機構より)

唐十郎『少女仮面』鑑賞記

不条理劇が今日の社会においてどれほどの影響力を持つことが出来るのか、その可能性を少しは期待できそうな演劇だった。この劇が演じられた1969年は日本社会が60年安保に続く戦後2番目の動乱時期であったが、60年の政治闘争が文字通り「政治イデオロギー」にフォーカスした闘争であったのに比べ、70年はまさに不条理の中から人間存在を確かめようという「存在イデオロギー」が跋扈した訳だが、政治的には例えば連合赤軍を一つの象徴とする「敗北」に終わったように、不条理劇も社会変革を起こすこともなく紅テント、黒テント天井桟敷等の一瞬の祝祭的象徴化に留まったように思う。これは、演じる側と観る側の拮抗が、存在の根底から反転して社会変革(革命)へ向かうことなくその後の「個」への限りない没入へと陥ったことは不条理劇の持つもう一つの本質であったかもしれない。それからの50年は、演劇界はまさに古典芸能も含めいわば”社会と寝る”「軽チャー商業」路線一筋に向かった訳だが、先日の歌舞伎俳優の不倫騒動などもその一端の現れだろう。話が逸れたが、今日の情況で、奇しくも昨年の「安保法成立」から丁度一年と言うこの日に、この劇を鑑賞した意味を敢えて言うならば、60年、70年と続く50年のブランクを超えての「革命劇」としての意味づけを敢えて行いたい。ヅカジェンヌ春日野が永遠の処女と肉体を欲する存在としての矛盾と「日本を世界一に!」と叫びまくる安倍晋三の虚偽性は実は表裏一体のものだ。「少女仮面」とは老いた肉体のわが日本の姿でもある。
今回の劇を演じたのは、私の世代より二回り、三回りも若い諸君たちであり、もちろん彼らは今から60年前、50年前の状況を知る由もない世代である。にもかかわらず、ストーリー劇中心の時代においてあえて不条理劇を演ずるその勇気は買いたい。また観る側も私の世代はほんの一握りであり、ほとんどが演じる側と同じ世代であった。形式的に言えば、50年前の「演じる・観るの一体化」は少なくとも年齢的には達成された訳で、昔を懐かしむ回帰主義や懐古趣味ではない。果たして、新しい不条理劇の運動がおこるのかどうか、現実が虚構を上回る「衝撃」が日常化している時に、敢えて舞台と言う虚構から現実を狙い撃ちできるのか、そこに期待してみたい。

「パリ協定」の政治戦略と我が国

9月3日、米中両政府がCOP21で採択された温暖化対策「パリ協定」を批准したというニュースは耳新しいところです。日本ではオリンピック狂騒に遊び呆けた後に、またぞろ中国との軍事的緊張だけを一方的に報道する相変わらずのマスコミの姿勢が目立つ中で、この「パリ協定」批准に関わるニュースもベタ記事程度の扱いしか見られないように感じました。しかし、米中による気候変動枠組に対する積極姿勢は、相当に戦略的なものであることを我が政府は見抜くことができないくらい愚かというしかありません。6月の伊勢志摩サミットにおいてもこの問題は話し合われ、「2016年発効」と言う具体的目標が設定されたにもかかわらず我が政府は「静観」などと言い、また5日の菅官房長官は「具体的な時期については現在、政府で検討中であるが、できるだけ早くと考えている」などとのんきな記者会見を行っています。米中がこれまで地球温暖化対策に背を向けて来たことから180度の転換を図ったことは大きな衝撃であり、これまで1992年の地球サミットアジェンダ21からおよそ四半世紀の時間を掛けて、「地球温暖化問題」は「科学」「経済」の枠から「国際政治」の枠へその本質を変えることになります。
今回の米中批准について、表面的には、米国はオバマの政治的遺産としての置き土産であり、また習近平路線の国内締め付けの手段と言う見方もありますが、それは文字通り皮相というものでしょう。今、世界政治は中東における混乱や極東の緊張など軍事的緊張を拡大するなかで、IMF、WTO(GATT)、NATOなどおよそ半世紀以上経った世界システムの枠組みの変動が静かに進行しています。 世界の警察官を任じた米国が単独主義への意向を模索する一方、ロシア・中国等の新興経済国(BRICS)が台頭、上海協力機構など脱欧米型同盟も誕生する中で、中国が中心となったアジアインフラ投資銀行(AIIB)が立ち上がったことは、いわゆる世界構造の多極化(脱欧米中心主義化)であることは間違いありません。そういう流れの視点から我が国の世界における動向をみると、「日米同盟」という旧式枠組みへの絶対的固執以外の何ものでもなく、更にそこには国家としての世界戦略を自ら描くことなく、宗主国たる米国への追従という独立国として恥ずべき対応と言わざるを得ません。今回の「パリ協定」の米中批准は、このような世界政治変動の中で行われたものであり、米中による世界的課題への共同化の動きとしてそれは評価することができるでしょう。
後先になりましたが、中国、米国という世界1位、2位の温室効果ガス(GHG)排出国が同時に締結・批准を行うことの意味は、今後のCOP22以降のヘゲモニーを両国が取るという意味でもあり、それは、「パリ協定」の目指す21世紀後半までの脱炭素化(正味ゼロ排出)という最終目的地を国際社会が共有し続けることの宣言とも言えます。具体的には、米中双方とも、「長期低GHG排出開発戦略」を発効目標の今年中に策定・発表することで合意しています。翻って我が国では、やっと環境省経産省で専門委員会がたちあがったところですが、米中が明確に2025年目標(米国)、2030年目標(中国)を掲げる中で、我が国は、2050年目標という神仏への願いのような態度であり、「温暖化対策は非常に長期的な問題であり、2030年まで頑張ればいいのではなく、もっとその先まで、今から100年以上かけて取り組まなければいけないという問題意識が必要だ」(地球環境産業技術研究機構 山地憲治所長)などという言い訳に終始しています。
「パリ協定」においては、もう一つ「温暖化による気温上昇を産業革命前に比べ2度より十分低く抑える」という長期目標があります。これによる、新たな温室効果ガスとしてハイドロフルオロカーボン(HFC)や航空部門からの排出取り組みなども議論が検討されることになっていますが、これを先述の「政治的」から見ていくと、自国へ有利な状況をCOPにおいて決定するという米中両国の思惑があるのは間違いないでしょう。そこには、「温室効果」のある「行為」そのものに「規制」を掛けていくという政治手法、それを科学技術の独占化・寡占化による世界標準へ囲い込んでいくという深謀遠慮の政治戦略を見てとれます。そもそも、先述の1992年地球サミットにおいては、人類共通の地球環境の保全と持続可能な開発実現としての課題として、生物多様性酸性雨、オゾン、温室効果、、、と様々な地球環境影響要因がパラレルに議論されましたが、特に二酸化炭素をターゲットにしたのは英国を中心としたEUの新しい金融取引の創造の狙いがあったと思われます。現状では排出権取引市場は彼らが目指したほどの成果を上げてはいませんが、今回の米中協定により、排出権取引を始めとする「CO2の貨幣価値」をめぐる様々な議論が活発化されることは間違いないでしょう。
ふり返れば、「京都議定書」という世界的ネーミングを頂いたにも関わらず、我が国はそれを活かすことが出来なかったのははなはだ残念に思います。「おもてなし」や「スーパーマリオ」も結構ですが、「京都議定書」の失敗を、米中不参加と言う当時の事情を根拠にするのは、今回の真逆の状況を見れば、21世紀の世界を想像俯瞰する知恵が我が国にはなかったということでしょう。現政権は良く「未来への投資」という言辞を多用しますが、果たして本当に彼らは「未来」を深く広く且つ戦略的に思考(・志向)しているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。
最期に、「科学と政治」について一言。科学が政治に利用されることは近代以降否定できない事実です。しかし、「象牙の塔」或いは「専門家(領域)」という現実社会との関係性を意識的或いは無意識に断絶した中では、「科学」自体の進歩もありえないのではないでしょうか。確かに「政治」はイデオロギーの対立をその本質の一つとしていますが、「科学」がそのことを避けて傍観者となるのではなく、積極的に「政治」に関与していくべきだと思います。この点については、古くはマックス・ウェーバーから現代に至るまで、様々な議論がなされていますが、非常に興味あるテーマです。

「パリ協定」の政治戦略と我が国

9月3日、米中両政府がCOP21で採択された温暖化対策「パリ協定」を批准したというニュースは耳新しいところです。日本ではオリンピック狂騒に遊び呆けた後に、またぞろ中国との軍事的緊張だけを一方的に報道する相変わらずのマスコミの姿勢が目立つ中で、この「パリ協定」批准に関わるニュースもベタ記事程度の扱いしか見られないように感じました。しかし、米中による気候変動枠組に対する積極姿勢は、相当に戦略的なものであることを我が政府は見抜くことができないくらい愚かというしかありません。6月の伊勢志摩サミットにおいてもこの問題は話し合われ、「2016年発効」と言う具体的目標が設定されたにもかかわらず我が政府は「静観」などと言い、また5日の菅官房長官は「具体的な時期については現在、政府で検討中であるが、できるだけ早くと考えている」などとのんきな記者会見を行っています。米中がこれまで地球温暖化対策に背を向けて来た態度から180度の転換を図ったことは大きな衝撃であり、1992年の地球サミットアジェンダ21からおよそ四半世紀の時間を掛けて、「地球温暖化問題」は「科学」「経済」の枠から「国際政治」の枠へその本質を変えることになります。

今回の米中批准について、表面的には、米国はオバマの政治的遺産としての置き土産であり、また習近平路線の国内締め付けの手段と言う見方もありますが、それは文字通り皮相というものでしょう。今、世界政治は中東における混乱や極東の緊張など軍事的緊張を拡大するなかで、IMFWTOGATT)、NATOなどおよそ半世紀以上経った世界システムの枠組みの変動が静かに進行しています。 世界の警察官を任じた米国が単独主義への意向を模索する一方、ロシア・中国等の新興経済国(BRICS)が台頭、上海協力機構など脱欧米型同盟も誕生する中で、中国が中心となったアジアインフラ投資銀行(AIIB)が立ち上がったことは、いわゆる世界構造の多極化(脱欧米中心主義化)であることは間違いありません。そういう流れの視点から我が国の世界における動向をみると、「日米同盟」という旧式枠組みへの絶対的固執以外の何ものでもなく、更にそこには国家としての世界戦略を自ら描くことなく、宗主国たる米国への追従という独立国として恥ずべき対応と言わざるを得ません。今回の「パリ協定」の米中批准は、このような世界政治変動の中で行われたものであり、米中による世界的課題への共同化の動きとしてそれは評価することができるでしょう。

後先になりましたが、中国、米国という世界1位、2位の温室効果ガス(GHG)排出国が同時に締結・批准を行うことの意味は、今後のCOP22以降のヘゲモニーを両国が取るという意味でもあり、それは、「パリ協定」の目指す21世紀後半までの脱炭素化(正味ゼロ排出)という最終目的地を国際社会が共有し続けることの宣言とも言えます。具体的には、米中双方とも、「長期低GHG排出開発戦略」を発効目標の今年中に策定・発表することで合意しています。翻って我が国では、やっと環境省経産省で専門委員会がたちあがったところですが、米中が明確に2025年目標(米国)、2030年目標(中国)を掲げる中で、我が国は、2050年目標という神仏への願いのような態度であり、「温暖化対策は非常に長期的な問題であり、2030年まで頑張ればいいのではなく、もっとその先まで、今から100年以上かけて取り組まなければいけないという問題意識が必要だ」(地球環境産業技術研究機構 山地憲治所長)などという言い訳に終始しています。

「パリ協定」においては、もう一つ「温暖化による気温上昇を産業革命前に比べ2度より十分低く抑える」という長期目標があります。これによる、新たな温室効果ガスとしてハイドロフルオロカーボン(HFC)や航空部門からの排出取り組みなども議論が検討されることになっていますが、これを先述の「政治的」から見ていくと、自国へ有利な状況をCOPにおいて決定するという米中両国の思惑があるのは間違いないでしょう。そこには、「温室効果」のある「行為」そのものに「規制」を掛けていくという政治手法、それを科学技術の独占化・寡占化による世界標準へ囲い込んでいくという深謀遠慮の政治戦略を見てとれます。そもそも、先述の1992年地球サミットにおいては、人類共通の地球環境の保全と持続可能な開発実現としての課題として、生物多様性酸性雨、オゾン、温室効果、、、と様々な地球環境影響要因がパラレルに議論されましたが、特に二酸化炭素をターゲットにしたのは英国を中心としたEUの新しい金融取引の創造の狙いがあったと思われます。現状では排出権取引市場は彼らが目指したほどの成果を上げてはいませんが、今回の米中協定により、排出権取引を始めとする「CO2の貨幣価値」をめぐる様々な議論が活発化されることは間違いないでしょう。

ふり返れば、「京都議定書」という世界的ネーミングを頂いたにも関わらず、我が国はそれを活かすことが出来なかったのははなはだ残念に思います。「おもてなし」や「スーパーマリオ」も結構ですが、「京都議定書」の失敗を、米中不参加と言う当時の事情を根拠にするのは、今回の真逆の状況を見れば、21世紀の世界を想像俯瞰する知恵が我が国にはなかったということでしょう。現政権は良く「未来への投資」という言辞を多用しますが、果たして本当に彼らは「未来」を深く広く且つ戦略的に思考(・志向)しているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。

最期に、「科学と政治」について一言。科学が政治に利用されることは近代以降否定できない事実です。しかし、「象牙の塔」或いは「専門家(領域)」という現実社会との関係性を意識的或いは無意識に断絶した中では、「科学」自体の進歩もありえないのではないでしょうか。確かに「政治」はイデオロギーの対立をその本質の一つとしていますが、「科学」がそのことを避けて傍観者となるのではなく、積極的に「政治」に関与していくべきだと思います。この点については、古くはマックス・ウェーバーから現代に至るまで、様々な議論がなされていますが、非常に興味あるテーマです。

健康と不健康の境目

テレビのCMを見ると「健康関連グッズ」のオンパレードです。高い宣伝広告費を 払えるということは、そのようなグッズが売れているからであり、また「健康」 をとにかく気にする人が多いということでしょう。CMだけでなく、テレビの番組 でも「健康に関するものは視聴率が良く取れる!」という話も聞いたことが有り ます。その中でも食品補助剤の役割を持つサプリメント関連に至っては、日本人 としては聞いたこともないような植物、或いは両生類などをベースとしたものな ど、本来の食事など必要ないようなイメージさえ持つことがあります。日本人が このように「健康」を意識するようになったのはいつの頃からだったのだろう か、と考えると「世界一長寿国」などと言われるようになってからのような気が します。確かに「長生きしたい」といういわゆる不老不死は人類の夢であり、今 でもそのような研究はどこかでされているのでしょう。しかし、例えば今の日本 における長寿の実態が、介護施設の現状を見るまでもなく、無理やり「生かされ ている」という感覚を持つのは少なからず多くの人も感じているのではないで しょうか。また「健康」の医療的なバロメータとしての様々な「数字」がありま す。良く知られてるのは「血圧」です。その他にも「血糖値」「コレステロー ル」など一度でも健康診断を受けたことが有れば、そこに並ぶ数値に自らの体の 状態を投影させて、「健康だ」「病気だ」と一喜一憂した思いは殆どの人が経験 していることでしょう。政府なのか霞が関なのかわかりませんが、彼らが決めた 基準(数値化)やルール(栄養価)になるべく多数の人が合わせるように努力す ることが「健康」であるという、いわば、健康民主主義とでも言うべき状況があ ります。もうお亡くなりになりましたが、元宮崎大学教授で農学博士の島田彰夫 氏はその著書『無意識の不健康』(農文協)で「健康は多数決で決まるのではな いが、本書では、実際には不健康であるに、他の人と同じような状態であること で、なんとはない安心感が得られているような場合を「無意識の不健康」として 取りあげている。」と書いています。これは「実際には健康であるのに他の人と 同じ状態でない(数値が異常)ことでなんとなく不安になる」と言うように逆読 みも出来ます。確かにそれほど「健康」というものを強く意識している日本人は ある意味”平和”なのかもしれません。世界には飢えと戦争で健康以前の「存在す る」ことさえも保障されない人々が数多くいます。「飽食国」ニッポンの姿を異 常と見る感覚を取り戻すべきだと考えます。WHO(世界保健機関)の「健康」に ついての定義を転載します。

●Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
●『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的に も、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること』

「健康」を狭義の意味で肉体或いは精神に限定するのではなく、私たちが生きて いる社会そのものの在り方にも注意を向けるべきことを指摘しているように思わ れます。いわば、「健康は健全なる社会に宿る」ということでしょうか!
さて最後に手前味噌ですが、「炭焼」は上記の「意識する健康・不健康」ではな くまさに”いつの間にか健康になる”「無意識の健康」とでもいうべき活動です。 「健康」に自信のない方には是非お勧めの「栄養活動」です!

土屋高輝さんを悼む

土屋高輝さんと初めてお会いしたのは、共通の友人であった和田典久氏の紹介が切っ掛けだった。その頃北新宿にあった私の事務所に和田氏と一緒にお出でになられたのは、記憶は定かではないが確か平成12年の春の頃だったように思う。しかし、お会いする以前から時折、和田氏から「あなたに是非会わせたい御仁がいる」という御話は聞いており、その和田氏の説明する土屋さんの人物像が、とても破天荒で魅力ある印象が深かったので、直接お会いするまでの間も私の頭の片隅に土屋さんのイメージは棲みついていた。そして確かに、最初の挨拶の懐かしい“薩摩弁”とともに、朴訥な中にも一種武士道的精神を備えた土屋さんの立ち振る舞いに、私はもう何年もあっていない旧友に会うような感覚に捉われたのだ。その後、私の方から頻繁に土屋さんに声を掛けて、時には事務所で、また時には居酒屋で、経済を語り、政治を語り、そして世界を語った。その頃の私は、父を亡くした直後であり、また自らの人生を振り返りながらそれから先の“生き方”に自信を少々失いかけてた時であり、家族や友人、仕事仲間とはまた違う環境を求めて、空いた時間に肉体労働のアルバイトをしていたのだが、酒の酔いも手伝い、つい土屋さんの優しさに甘えたのだろう。私はある時、土屋さんから「あなたの言葉を聞いていると逃げの言葉が多すぎる!」と一喝されたのだった。友とは言え、5歳の年齢差の土屋さんは私にとって、先輩であると同時に兄でもあり、ともすれば人の言葉にいつも反論しながら生きてきた私であるが、その時は何故か土屋さんの言葉を素直に受け入れることが出来たのだった。自分ではなかなか気づかなかったマイナーな生きる姿勢に対する、土屋さんの真正面からの“喝”は“檄”でもあった。思い返せば、この土屋さんとの出会いにより、私は事業意欲とともに生きていく気持ちも180度ターンしたのだろう。そのような土屋さんとの付き合いが短くも終わるとは夢にも思わなかった。というのは、土屋さんが新たな活躍の場を名古屋に求めて東京を離れたのだった。「明日名古屋へ向かう」という土屋さんと荻窪の居酒屋で“最後の酒”を交わしながら語った内容は、まるでこれから戦場へ赴く友との別れのような雰囲気があったことを今でも覚えている。しかし、実は話はこれでは終わらなかった。それは、私と土屋さんにとっての第二幕が次に控えていたとは想像だにしない、別れの酒だったのだ。土屋さんが名古屋へ赴いてから二月ほど経った頃、名古屋を豪雨が襲い、後にそれは「東海豪雨」と名付けられたのだが、土屋さんが勤務する天白区の印刷会社もビルごと水につかったのだった。当然安否を気遣った私はすぐ土屋さんと連絡を取ったのだが、土屋さんは沈着冷静にも、ご自分のことよりも会社のことを右往左往するその経営者以上に考え行動しようとしていた。ここでも、土屋流武士道的経営思考とでもいうべき、また薩摩っぽの性格かもしれないが、そのような土屋さんの行動は、当然経営者とぶつかるのは避けて通れない。そのような、土性骨の強い土屋さんを再び東京に舞い戻らせた要因の一つは、私自身がまた再び友とまみえることを願って土屋さんを口説いたことにもあるだろう。私は、現場仕事が終わるとそのまま車で名古屋へ土屋さんを迎えるべく一路向かったのだった。水害の後始末はまだ残っていたが、土屋さんのアパートから家財道具一式を積み、そのまま東京へUターンした。これを切っ掛けに私と土屋さんの第二ステージは幕を開いたのである。とりあえずは、東京での新たな出発を誓う土屋さんを半ば強制的に我が家へ同居させ、私と土屋さんの事業コラボを始めることになった。「新規事業決起集会」などと銘打って、北新宿の事務所で先述の和田典久氏、そして土屋さんのご子息の有君なども参加して、盛大な“飲み会”を開いたことを今でも時折思い出す。そのようにして、土屋さんと私の共同生活と共同事業が始まったのだが、ともに「商売道」をトコトン突き詰めるタイプではないことを多分土屋さんも私のことをそのように思っていたのではないだろうか。二人がある事業計画を討議する時も、最後は「政治論」「人生論」のような話になり、そしてお互いに共通する文学的感覚とでもいうべきか、「信条」ではなく「心情」を優先する話に気持ちが昂ぶって来るのである。少なくとも、この時私たちは数十年前の「世界を変えたい」という若き学生時代に舞い戻っていたのである。土屋さんの学生運動との詳細な関わりは知らないが、フランス文学を専攻されていた土屋さんには、いつも「パリ5月革命」のカルチェラタンの印象が胸の思いにあったように思える。土屋さんは一方では冷静に現状を分析し、理路整然な行動を規範としつつも、もう一方では人間に対する根本的な優しさで、どのような相手でも包み込む深さを備えていた。土屋さんのまなざしの優しさはそれを物語るものだろう。この共同事業においては、このような土屋さんの幅広い人脈とその人間性が、また私にとっても新たな人間関係の幅を広げていったのだった。そのような土屋さんが、今から思えば、人生最後のステージを故郷宮崎に移したのは、平成13年だっただろうか。私も土屋さんも、現実的な利益確保を目的とする事業に全身全霊を打ち込む(※土屋さんは良く「全知全能を傾ける!」という表現が好きだった!)には、余りにもいろいろな人生経験を積んでおり、単なる利益稼ぎの商売では、その存在を満足させることは出来なかった。とはいえ、身近な人を大事にする土屋さんの家族愛は慎み深くも大きいものであり、多少の望郷の念も手伝ったのではないだろうか。しかし、土屋さんは、故郷宮崎においてまた新たな試練と壮絶な闘いに挑んでいくのである。串間市を相手に堂々と決して譲らない裁判闘争は、「蟷螂の斧」とは知りつつもそれをやり抜くという土屋さんの姿勢は、最初に私が土屋さんから一喝された「逃げるな!」というあの言葉を吐く土屋高輝という存在の一つの本質だった。裁判の勝ち負けではなく、まさに「心情」を「信条」に転換してやり抜くことにその意義を見出したのだ。しかし、現実の裁判闘争は時間的、空間的、経済的にもかなりな労苦を伴ったことだろう。そのことが皮肉にも土屋さんの肉体を蝕んでいたとしたら、もし神と言う存在があるとすればあまりにも非情ではないか。さて、土屋さんとの思い出をつづりながらの哀悼文になってしまったが、思い出をかき集めればまだまだ書きつくせないほどである。土屋さんと最後にお会いしたのは、旅立つ二月前の5月31日、娘さん一家がある東京世田谷の尾山台だった。ここは、私が通った大学がある懐かしい場所であり、それにも土屋さんと私のつながりの不思議な縁を感じるのである。この時は、お互い夫人同伴の短い時間だったが、それでも非常に血色のよい、お元気な土屋さんと酒抜きとはいえ、会話は弾んだのだが、そのわずか一月後に、「上京した」という土屋さんからのメールを頂いた。そして、そのメールには、「余命1か月を宣告された。セカンドオピニオンを求めるために上京した」という返事とともに、「やはり(余命1か月という)同じ見解だった」という文字が何故か冷静な感じで書いてあった。私はとっさに「余命なんて医者が決めるものではないですよ。宣告されてもずっとピンピンしている人はいます」と即レスしたが、いまから思えば慰めの積りで書いたのだろうが、私の心は何とも言えない複雑な揺れを感じた。しかし、土屋さんの覚悟はどこかで決まっていたのだろう。7月13日付のメールをそのまま転記したい。「既に人生の整理を始めています。整理と最期の準備はしていますが、最後まで諦めずに静かに頑張るつもりです。著作として<ドキュメント・串間の真相、日本の深層>、更に、<我が転戦記>を出すことにしました。そうです、余命は自分で決めます」

最後まで土屋式武士道とも言える規範を曲げることなく旅立った土屋高輝さん、あなたからはいろいろなことを教えてもらいました。私がそちらへ行くにはまだ少し時間がありそうですので、そちらでお好きだった『百万本のバラ』でも歌いながらお待ちください。私だけでなく、あなたの友だった方々もきっとまたそちらでお会いすることができるでしょう。その日まで、さようなら。

 

平成28年8月21日

 

川口武文

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仮想通貨

金融経済については余り知識はありませんが、というかもともと興味が無いのですが、とはいえこの社会に生きている以上、金融(カネ)が私自身の物質的生活基盤の要諦となっているのは事実でありそこから逃れることはできません。さて、今年の2月、東京三菱UFJ銀行が、「仮想通貨」を発行することを発表しましたが、一部の人を除きそれほど大きな話題にはなりませんでした。大概に言えば、「仮想通貨」とは以前問題となった「ビットコイン」のことです。10年ほど前でしょうか、セカンドライフと言うバーチャル空間ビジネスが一時流行りました(今はどうなっているか?!)が、その中で使用されていた「リンデン$」というバーチャルな通貨がありましたが、これと同じものかと思った所、どうも違うようです。この領域の専門家によれば、リンデン$とビットコインの違いは、発行主体にあるとのことで、リンデン$の場合は、セカンドライフの運営会社が発行主体ですが、一方のビットコインには発行主体というものが無い、というか「しいていえば、ビットコイン取引に参加するコンピュータ全体である」とのことらしいのですが、政府日銀発行の紙幣通貨になれている私にとっては、ちょっとイマイチ理解できないものです。もう一つの説明では、現在流通している通貨紙幣が各国家(の中央銀行)という中央集権的取引性格だとすれば、ビットコインは「分散型取引」であるということです。このような「仮想通貨」を発行するとした三菱UFJの説明によると、「独自の仮想通貨として「MUFJコイン」を開発中であり、これはビットコインの技術をベースとしている」「まずは「行内通貨」として実験を行い、可能性が実証されれば円と交換できるようにし、一般ユーザー向けに解放することも検討する」と述べています。一方、メガバンクがこのような「仮想通貨」の開発に乗り出した本質的狙いとして、別の要因も考えられているようです。すなわち、コンピューター上の「通貨」と人工知能(AI)による接続が、現在不透明な形で行われている貨幣需給(量的緩和金利政策等)をより適正に安定的に調節することが出来るようになりインフレ・デフレの防止策となる、というものです。これについては、日本政府もこの主旨を明言はしていませんが、三菱UFJの発表後、金融庁が「仮想通貨」を「法定通貨」として認める準備(法整備)を検討しているとの報道がされています。小さい時、親からもらったお小遣いで駄菓子屋でお菓子を買った時から、時々の親を始め社会からの「額に汗して働いた結果」としての道徳的説教もあった「お金」には、そこに印刷刻印された数字的価値以外の、人間が社会的動物としてのより根源的価値も含まれているかのように感じたものです。給料袋に現金が入っている時の“感動”は銀行振り込みという機械的な仕組みに変わりはしましたが、それでもATMを操作すれば、そこには物質的には殆ど価値のない金属と紙ではあるものの、やはり「人間感情」としての“喜び”はあるものです。しかし、それが、コンピュータやスマホなどによる一つの「情報」としてしか機能しなくなることは、先述のインフレ・デフレの効率的適正管理によって景気動向に左右されてきた人間の経済暮しが安定するという効果と果たして取引できるだけの価値があるものか、疑問に思うところです。もっと端的に言えば、インフレ・デフレの繰り返しは、ある意味人間経済活動の本質的なことであり、これを適正にコントロールできることなど所詮無理であり、もしそれを可能にするとすれば、人間自身がその人間自身の本質そのものを変えていくことしかあり得ないのではないか、と思う次第です。

 ★「仮想通貨」については、ウイキリークのジュリアン・アサンジがその可能性と効果について、「管理国家VS市民」という構図から述べていますが、確かに一時議論された「地域通貨」と概念的に重なるところもあり、本論でのべた「中央集権管理VS分散型管理」という構図とも重なるので、そこの部分ではその可能性を肯定することはやぶさかではありませんが、いずれにせよ、我々の生殺与奪を握る「通貨」がAIと連動することの“怖さ”の想像力を膨らませる必要もあるかもしれません。

 

<低炭素都市ニュース&レポート8月号より>