「パリ協定」の政治戦略と我が国

9月3日、米中両政府がCOP21で採択された温暖化対策「パリ協定」を批准したというニュースは耳新しいところです。日本ではオリンピック狂騒に遊び呆けた後に、またぞろ中国との軍事的緊張だけを一方的に報道する相変わらずのマスコミの姿勢が目立つ中で、この「パリ協定」批准に関わるニュースもベタ記事程度の扱いしか見られないように感じました。しかし、米中による気候変動枠組に対する積極姿勢は、相当に戦略的なものであることを我が政府は見抜くことができないくらい愚かというしかありません。6月の伊勢志摩サミットにおいてもこの問題は話し合われ、「2016年発効」と言う具体的目標が設定されたにもかかわらず我が政府は「静観」などと言い、また5日の菅官房長官は「具体的な時期については現在、政府で検討中であるが、できるだけ早くと考えている」などとのんきな記者会見を行っています。米中がこれまで地球温暖化対策に背を向けて来たことから180度の転換を図ったことは大きな衝撃であり、これまで1992年の地球サミットアジェンダ21からおよそ四半世紀の時間を掛けて、「地球温暖化問題」は「科学」「経済」の枠から「国際政治」の枠へその本質を変えることになります。
今回の米中批准について、表面的には、米国はオバマの政治的遺産としての置き土産であり、また習近平路線の国内締め付けの手段と言う見方もありますが、それは文字通り皮相というものでしょう。今、世界政治は中東における混乱や極東の緊張など軍事的緊張を拡大するなかで、IMF、WTO(GATT)、NATOなどおよそ半世紀以上経った世界システムの枠組みの変動が静かに進行しています。 世界の警察官を任じた米国が単独主義への意向を模索する一方、ロシア・中国等の新興経済国(BRICS)が台頭、上海協力機構など脱欧米型同盟も誕生する中で、中国が中心となったアジアインフラ投資銀行(AIIB)が立ち上がったことは、いわゆる世界構造の多極化(脱欧米中心主義化)であることは間違いありません。そういう流れの視点から我が国の世界における動向をみると、「日米同盟」という旧式枠組みへの絶対的固執以外の何ものでもなく、更にそこには国家としての世界戦略を自ら描くことなく、宗主国たる米国への追従という独立国として恥ずべき対応と言わざるを得ません。今回の「パリ協定」の米中批准は、このような世界政治変動の中で行われたものであり、米中による世界的課題への共同化の動きとしてそれは評価することができるでしょう。
後先になりましたが、中国、米国という世界1位、2位の温室効果ガス(GHG)排出国が同時に締結・批准を行うことの意味は、今後のCOP22以降のヘゲモニーを両国が取るという意味でもあり、それは、「パリ協定」の目指す21世紀後半までの脱炭素化(正味ゼロ排出)という最終目的地を国際社会が共有し続けることの宣言とも言えます。具体的には、米中双方とも、「長期低GHG排出開発戦略」を発効目標の今年中に策定・発表することで合意しています。翻って我が国では、やっと環境省経産省で専門委員会がたちあがったところですが、米中が明確に2025年目標(米国)、2030年目標(中国)を掲げる中で、我が国は、2050年目標という神仏への願いのような態度であり、「温暖化対策は非常に長期的な問題であり、2030年まで頑張ればいいのではなく、もっとその先まで、今から100年以上かけて取り組まなければいけないという問題意識が必要だ」(地球環境産業技術研究機構 山地憲治所長)などという言い訳に終始しています。
「パリ協定」においては、もう一つ「温暖化による気温上昇を産業革命前に比べ2度より十分低く抑える」という長期目標があります。これによる、新たな温室効果ガスとしてハイドロフルオロカーボン(HFC)や航空部門からの排出取り組みなども議論が検討されることになっていますが、これを先述の「政治的」から見ていくと、自国へ有利な状況をCOPにおいて決定するという米中両国の思惑があるのは間違いないでしょう。そこには、「温室効果」のある「行為」そのものに「規制」を掛けていくという政治手法、それを科学技術の独占化・寡占化による世界標準へ囲い込んでいくという深謀遠慮の政治戦略を見てとれます。そもそも、先述の1992年地球サミットにおいては、人類共通の地球環境の保全と持続可能な開発実現としての課題として、生物多様性酸性雨、オゾン、温室効果、、、と様々な地球環境影響要因がパラレルに議論されましたが、特に二酸化炭素をターゲットにしたのは英国を中心としたEUの新しい金融取引の創造の狙いがあったと思われます。現状では排出権取引市場は彼らが目指したほどの成果を上げてはいませんが、今回の米中協定により、排出権取引を始めとする「CO2の貨幣価値」をめぐる様々な議論が活発化されることは間違いないでしょう。
ふり返れば、「京都議定書」という世界的ネーミングを頂いたにも関わらず、我が国はそれを活かすことが出来なかったのははなはだ残念に思います。「おもてなし」や「スーパーマリオ」も結構ですが、「京都議定書」の失敗を、米中不参加と言う当時の事情を根拠にするのは、今回の真逆の状況を見れば、21世紀の世界を想像俯瞰する知恵が我が国にはなかったということでしょう。現政権は良く「未来への投資」という言辞を多用しますが、果たして本当に彼らは「未来」を深く広く且つ戦略的に思考(・志向)しているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。
最期に、「科学と政治」について一言。科学が政治に利用されることは近代以降否定できない事実です。しかし、「象牙の塔」或いは「専門家(領域)」という現実社会との関係性を意識的或いは無意識に断絶した中では、「科学」自体の進歩もありえないのではないでしょうか。確かに「政治」はイデオロギーの対立をその本質の一つとしていますが、「科学」がそのことを避けて傍観者となるのではなく、積極的に「政治」に関与していくべきだと思います。この点については、古くはマックス・ウェーバーから現代に至るまで、様々な議論がなされていますが、非常に興味あるテーマです。

健康と不健康の境目

テレビのCMを見ると「健康関連グッズ」のオンパレードです。高い宣伝広告費を 払えるということは、そのようなグッズが売れているからであり、また「健康」 をとにかく気にする人が多いということでしょう。CMだけでなく、テレビの番組 でも「健康に関するものは視聴率が良く取れる!」という話も聞いたことが有り ます。その中でも食品補助剤の役割を持つサプリメント関連に至っては、日本人 としては聞いたこともないような植物、或いは両生類などをベースとしたものな ど、本来の食事など必要ないようなイメージさえ持つことがあります。日本人が このように「健康」を意識するようになったのはいつの頃からだったのだろう か、と考えると「世界一長寿国」などと言われるようになってからのような気が します。確かに「長生きしたい」といういわゆる不老不死は人類の夢であり、今 でもそのような研究はどこかでされているのでしょう。しかし、例えば今の日本 における長寿の実態が、介護施設の現状を見るまでもなく、無理やり「生かされ ている」という感覚を持つのは少なからず多くの人も感じているのではないで しょうか。また「健康」の医療的なバロメータとしての様々な「数字」がありま す。良く知られてるのは「血圧」です。その他にも「血糖値」「コレステロー ル」など一度でも健康診断を受けたことが有れば、そこに並ぶ数値に自らの体の 状態を投影させて、「健康だ」「病気だ」と一喜一憂した思いは殆どの人が経験 していることでしょう。政府なのか霞が関なのかわかりませんが、彼らが決めた 基準(数値化)やルール(栄養価)になるべく多数の人が合わせるように努力す ることが「健康」であるという、いわば、健康民主主義とでも言うべき状況があ ります。もうお亡くなりになりましたが、元宮崎大学教授で農学博士の島田彰夫 氏はその著書『無意識の不健康』(農文協)で「健康は多数決で決まるのではな いが、本書では、実際には不健康であるに、他の人と同じような状態であること で、なんとはない安心感が得られているような場合を「無意識の不健康」として 取りあげている。」と書いています。これは「実際には健康であるのに他の人と 同じ状態でない(数値が異常)ことでなんとなく不安になる」と言うように逆読 みも出来ます。確かにそれほど「健康」というものを強く意識している日本人は ある意味”平和”なのかもしれません。世界には飢えと戦争で健康以前の「存在す る」ことさえも保障されない人々が数多くいます。「飽食国」ニッポンの姿を異 常と見る感覚を取り戻すべきだと考えます。WHO(世界保健機関)の「健康」に ついての定義を転載します。

●Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
●『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的に も、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること』

「健康」を狭義の意味で肉体或いは精神に限定するのではなく、私たちが生きて いる社会そのものの在り方にも注意を向けるべきことを指摘しているように思わ れます。いわば、「健康は健全なる社会に宿る」ということでしょうか!
さて最後に手前味噌ですが、「炭焼」は上記の「意識する健康・不健康」ではな くまさに”いつの間にか健康になる”「無意識の健康」とでもいうべき活動です。 「健康」に自信のない方には是非お勧めの「栄養活動」です!

土屋高輝さんを悼む

土屋高輝さんと初めてお会いしたのは、共通の友人であった和田典久氏の紹介が切っ掛けだった。その頃北新宿にあった私の事務所に和田氏と一緒にお出でになられたのは、記憶は定かではないが確か平成12年の春の頃だったように思う。しかし、お会いする以前から時折、和田氏から「あなたに是非会わせたい御仁がいる」という御話は聞いており、その和田氏の説明する土屋さんの人物像が、とても破天荒で魅力ある印象が深かったので、直接お会いするまでの間も私の頭の片隅に土屋さんのイメージは棲みついていた。そして確かに、最初の挨拶の懐かしい“薩摩弁”とともに、朴訥な中にも一種武士道的精神を備えた土屋さんの立ち振る舞いに、私はもう何年もあっていない旧友に会うような感覚に捉われたのだ。その後、私の方から頻繁に土屋さんに声を掛けて、時には事務所で、また時には居酒屋で、経済を語り、政治を語り、そして世界を語った。その頃の私は、父を亡くした直後であり、また自らの人生を振り返りながらそれから先の“生き方”に自信を少々失いかけてた時であり、家族や友人、仕事仲間とはまた違う環境を求めて、空いた時間に肉体労働のアルバイトをしていたのだが、酒の酔いも手伝い、つい土屋さんの優しさに甘えたのだろう。私はある時、土屋さんから「あなたの言葉を聞いていると逃げの言葉が多すぎる!」と一喝されたのだった。友とは言え、5歳の年齢差の土屋さんは私にとって、先輩であると同時に兄でもあり、ともすれば人の言葉にいつも反論しながら生きてきた私であるが、その時は何故か土屋さんの言葉を素直に受け入れることが出来たのだった。自分ではなかなか気づかなかったマイナーな生きる姿勢に対する、土屋さんの真正面からの“喝”は“檄”でもあった。思い返せば、この土屋さんとの出会いにより、私は事業意欲とともに生きていく気持ちも180度ターンしたのだろう。そのような土屋さんとの付き合いが短くも終わるとは夢にも思わなかった。というのは、土屋さんが新たな活躍の場を名古屋に求めて東京を離れたのだった。「明日名古屋へ向かう」という土屋さんと荻窪の居酒屋で“最後の酒”を交わしながら語った内容は、まるでこれから戦場へ赴く友との別れのような雰囲気があったことを今でも覚えている。しかし、実は話はこれでは終わらなかった。それは、私と土屋さんにとっての第二幕が次に控えていたとは想像だにしない、別れの酒だったのだ。土屋さんが名古屋へ赴いてから二月ほど経った頃、名古屋を豪雨が襲い、後にそれは「東海豪雨」と名付けられたのだが、土屋さんが勤務する天白区の印刷会社もビルごと水につかったのだった。当然安否を気遣った私はすぐ土屋さんと連絡を取ったのだが、土屋さんは沈着冷静にも、ご自分のことよりも会社のことを右往左往するその経営者以上に考え行動しようとしていた。ここでも、土屋流武士道的経営思考とでもいうべき、また薩摩っぽの性格かもしれないが、そのような土屋さんの行動は、当然経営者とぶつかるのは避けて通れない。そのような、土性骨の強い土屋さんを再び東京に舞い戻らせた要因の一つは、私自身がまた再び友とまみえることを願って土屋さんを口説いたことにもあるだろう。私は、現場仕事が終わるとそのまま車で名古屋へ土屋さんを迎えるべく一路向かったのだった。水害の後始末はまだ残っていたが、土屋さんのアパートから家財道具一式を積み、そのまま東京へUターンした。これを切っ掛けに私と土屋さんの第二ステージは幕を開いたのである。とりあえずは、東京での新たな出発を誓う土屋さんを半ば強制的に我が家へ同居させ、私と土屋さんの事業コラボを始めることになった。「新規事業決起集会」などと銘打って、北新宿の事務所で先述の和田典久氏、そして土屋さんのご子息の有君なども参加して、盛大な“飲み会”を開いたことを今でも時折思い出す。そのようにして、土屋さんと私の共同生活と共同事業が始まったのだが、ともに「商売道」をトコトン突き詰めるタイプではないことを多分土屋さんも私のことをそのように思っていたのではないだろうか。二人がある事業計画を討議する時も、最後は「政治論」「人生論」のような話になり、そしてお互いに共通する文学的感覚とでもいうべきか、「信条」ではなく「心情」を優先する話に気持ちが昂ぶって来るのである。少なくとも、この時私たちは数十年前の「世界を変えたい」という若き学生時代に舞い戻っていたのである。土屋さんの学生運動との詳細な関わりは知らないが、フランス文学を専攻されていた土屋さんには、いつも「パリ5月革命」のカルチェラタンの印象が胸の思いにあったように思える。土屋さんは一方では冷静に現状を分析し、理路整然な行動を規範としつつも、もう一方では人間に対する根本的な優しさで、どのような相手でも包み込む深さを備えていた。土屋さんのまなざしの優しさはそれを物語るものだろう。この共同事業においては、このような土屋さんの幅広い人脈とその人間性が、また私にとっても新たな人間関係の幅を広げていったのだった。そのような土屋さんが、今から思えば、人生最後のステージを故郷宮崎に移したのは、平成13年だっただろうか。私も土屋さんも、現実的な利益確保を目的とする事業に全身全霊を打ち込む(※土屋さんは良く「全知全能を傾ける!」という表現が好きだった!)には、余りにもいろいろな人生経験を積んでおり、単なる利益稼ぎの商売では、その存在を満足させることは出来なかった。とはいえ、身近な人を大事にする土屋さんの家族愛は慎み深くも大きいものであり、多少の望郷の念も手伝ったのではないだろうか。しかし、土屋さんは、故郷宮崎においてまた新たな試練と壮絶な闘いに挑んでいくのである。串間市を相手に堂々と決して譲らない裁判闘争は、「蟷螂の斧」とは知りつつもそれをやり抜くという土屋さんの姿勢は、最初に私が土屋さんから一喝された「逃げるな!」というあの言葉を吐く土屋高輝という存在の一つの本質だった。裁判の勝ち負けではなく、まさに「心情」を「信条」に転換してやり抜くことにその意義を見出したのだ。しかし、現実の裁判闘争は時間的、空間的、経済的にもかなりな労苦を伴ったことだろう。そのことが皮肉にも土屋さんの肉体を蝕んでいたとしたら、もし神と言う存在があるとすればあまりにも非情ではないか。さて、土屋さんとの思い出をつづりながらの哀悼文になってしまったが、思い出をかき集めればまだまだ書きつくせないほどである。土屋さんと最後にお会いしたのは、旅立つ二月前の5月31日、娘さん一家がある東京世田谷の尾山台だった。ここは、私が通った大学がある懐かしい場所であり、それにも土屋さんと私のつながりの不思議な縁を感じるのである。この時は、お互い夫人同伴の短い時間だったが、それでも非常に血色のよい、お元気な土屋さんと酒抜きとはいえ、会話は弾んだのだが、そのわずか一月後に、「上京した」という土屋さんからのメールを頂いた。そして、そのメールには、「余命1か月を宣告された。セカンドオピニオンを求めるために上京した」という返事とともに、「やはり(余命1か月という)同じ見解だった」という文字が何故か冷静な感じで書いてあった。私はとっさに「余命なんて医者が決めるものではないですよ。宣告されてもずっとピンピンしている人はいます」と即レスしたが、いまから思えば慰めの積りで書いたのだろうが、私の心は何とも言えない複雑な揺れを感じた。しかし、土屋さんの覚悟はどこかで決まっていたのだろう。7月13日付のメールをそのまま転記したい。「既に人生の整理を始めています。整理と最期の準備はしていますが、最後まで諦めずに静かに頑張るつもりです。著作として<ドキュメント・串間の真相、日本の深層>、更に、<我が転戦記>を出すことにしました。そうです、余命は自分で決めます」

最後まで土屋式武士道とも言える規範を曲げることなく旅立った土屋高輝さん、あなたからはいろいろなことを教えてもらいました。私がそちらへ行くにはまだ少し時間がありそうですので、そちらでお好きだった『百万本のバラ』でも歌いながらお待ちください。私だけでなく、あなたの友だった方々もきっとまたそちらでお会いすることができるでしょう。その日まで、さようなら。

 

平成28年8月21日

 

川口武文

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仮想通貨

金融経済については余り知識はありませんが、というかもともと興味が無いのですが、とはいえこの社会に生きている以上、金融(カネ)が私自身の物質的生活基盤の要諦となっているのは事実でありそこから逃れることはできません。さて、今年の2月、東京三菱UFJ銀行が、「仮想通貨」を発行することを発表しましたが、一部の人を除きそれほど大きな話題にはなりませんでした。大概に言えば、「仮想通貨」とは以前問題となった「ビットコイン」のことです。10年ほど前でしょうか、セカンドライフと言うバーチャル空間ビジネスが一時流行りました(今はどうなっているか?!)が、その中で使用されていた「リンデン$」というバーチャルな通貨がありましたが、これと同じものかと思った所、どうも違うようです。この領域の専門家によれば、リンデン$とビットコインの違いは、発行主体にあるとのことで、リンデン$の場合は、セカンドライフの運営会社が発行主体ですが、一方のビットコインには発行主体というものが無い、というか「しいていえば、ビットコイン取引に参加するコンピュータ全体である」とのことらしいのですが、政府日銀発行の紙幣通貨になれている私にとっては、ちょっとイマイチ理解できないものです。もう一つの説明では、現在流通している通貨紙幣が各国家(の中央銀行)という中央集権的取引性格だとすれば、ビットコインは「分散型取引」であるということです。このような「仮想通貨」を発行するとした三菱UFJの説明によると、「独自の仮想通貨として「MUFJコイン」を開発中であり、これはビットコインの技術をベースとしている」「まずは「行内通貨」として実験を行い、可能性が実証されれば円と交換できるようにし、一般ユーザー向けに解放することも検討する」と述べています。一方、メガバンクがこのような「仮想通貨」の開発に乗り出した本質的狙いとして、別の要因も考えられているようです。すなわち、コンピューター上の「通貨」と人工知能(AI)による接続が、現在不透明な形で行われている貨幣需給(量的緩和金利政策等)をより適正に安定的に調節することが出来るようになりインフレ・デフレの防止策となる、というものです。これについては、日本政府もこの主旨を明言はしていませんが、三菱UFJの発表後、金融庁が「仮想通貨」を「法定通貨」として認める準備(法整備)を検討しているとの報道がされています。小さい時、親からもらったお小遣いで駄菓子屋でお菓子を買った時から、時々の親を始め社会からの「額に汗して働いた結果」としての道徳的説教もあった「お金」には、そこに印刷刻印された数字的価値以外の、人間が社会的動物としてのより根源的価値も含まれているかのように感じたものです。給料袋に現金が入っている時の“感動”は銀行振り込みという機械的な仕組みに変わりはしましたが、それでもATMを操作すれば、そこには物質的には殆ど価値のない金属と紙ではあるものの、やはり「人間感情」としての“喜び”はあるものです。しかし、それが、コンピュータやスマホなどによる一つの「情報」としてしか機能しなくなることは、先述のインフレ・デフレの効率的適正管理によって景気動向に左右されてきた人間の経済暮しが安定するという効果と果たして取引できるだけの価値があるものか、疑問に思うところです。もっと端的に言えば、インフレ・デフレの繰り返しは、ある意味人間経済活動の本質的なことであり、これを適正にコントロールできることなど所詮無理であり、もしそれを可能にするとすれば、人間自身がその人間自身の本質そのものを変えていくことしかあり得ないのではないか、と思う次第です。

 ★「仮想通貨」については、ウイキリークのジュリアン・アサンジがその可能性と効果について、「管理国家VS市民」という構図から述べていますが、確かに一時議論された「地域通貨」と概念的に重なるところもあり、本論でのべた「中央集権管理VS分散型管理」という構図とも重なるので、そこの部分ではその可能性を肯定することはやぶさかではありませんが、いずれにせよ、我々の生殺与奪を握る「通貨」がAIと連動することの“怖さ”の想像力を膨らませる必要もあるかもしれません。

 

<低炭素都市ニュース&レポート8月号より>

天皇明仁と人間明仁

平成天皇が「生前退位」という”お気持ち”を表明されました。朴訥と語る口調のおよそ11分の全文は1823文字からなっています。普通5分間スピーチで1500文字と言いますから、天皇はその倍以上の時間をかけてスピーチを行ったことになります。天皇の口調をモノマネするタレントもときおり見かけますが、今回のスピーチの言葉と口調は説得力と訴求力があるように思えます。それは、やはり天皇の偽りのない本音がにじみ出ていたからでしょう。天皇制を巡る政治的立場からの議論は横に置き、人間として彼の言葉をどのように受け取ることが出来るか、或いは受け取らなければならないか、ということは国民としてだけでなく我々も人間として避けてはならないことのように思えます。何故なら、彼と私たちの存在の関係は政治や制度と言う社会的制限を取り払えば、人間共通項としての”自由”という根源的命題が横たわっているからです。極言すれば、彼(平成天皇)の自由を奪っている主体の一つに我々(国民)の存在があるのではないでしょうか。少なくとも戦後、天皇から国民が「自由を奪われる」ということはなかったでしょう。彼の話しの中の「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて」いたという個所は、彼の素直な立場上の思いとともに彼自身の苦悩も感じさせるという受取は私だけかもしれませんが、彼の意識的或いは無意識的呪縛をほどき、人間としての根本的自由を取り戻させるのは、時の政治権力ではなく、同じ人間共通項としての我々国民にしかできないものです。戦後70年、とくに彼が在位したおよそ30年に渡る彼の行動は「天皇明仁」ではなく「人間明仁」として高い評価を与えうるものでした。戦後民主主義の申し子の一人としての人間明仁は、その妻美智子皇后とともに新しい時代における皇室の在り方を模索してこれまで来た訳ですが、敢えてこのタイミングで彼が”お気持ち”を述べたその真意と本音を考えることは、同じ戦後民主主義を啓蒙された者として私自身には必要に思えます。

中小企業の小考察

先日の参院選時にテレビのインタビューに都内の中小企業経営者がこのように語っていました。「(アベノミクスによって)景気が良くなり、我々中小企業にも大企業からどんどん仕事が入って来ることを期待しています」と。アベノミクスの是非はともかくも、この経営者の発言は非常に“素直”だと感じました。これが日本のほとんどの中小企業経営者の現実的な本音ではないでしょうか。マスコミや各種媒体を通じて、中小企業の日本産業構造における“本質的位置づけ”を無視した「中小企業の挑戦」とか「中小企業の強み」「地域のリーダー」などと言った表層的な言葉が片方では飛び交い、若者への「起業のすすめ」なども国家中枢から積極的に飛び出していますが、中小企業の実態とは企業の生産領域における大企業との「主従関係(仕事を出す、もらう)」がその根底にあり、先ほどのインタビューの経営者は正直にその実態を吐露しただけのことです。「日本産業構造の本質的位置づけ」と述べましたが、経済学者の大内力(1918~2009)によれば、我が国の中小企業の歴史は、その前段としての明治政府の「殖産興業化」における農村破壊と言う手段による機械工業への労働力動員があり、その受け皿として従来の家内制手工業が小機械化導入により中小企業として再生され、一方日本資本主義の短期間における成長の推進力となる独占資本形成の為にも中小企業は必要な存在でもありました。しかし、中小企業が拡大再生産するためには、前述の「低賃金労働」は存立の不可欠条件であるとともに、もう一つの不可欠要件として「中小企業が絶えず成長を阻止され、中小企業の枠内で停滞し、没落・発生をくり返す」必要がある、という分析を行っています。(大内力『日本経済論(下)』)この論を証明するものではありませんが、今年3月の「Newsweek」において加谷珪一と言う評論家が「日本で倒産が激減しているが、決して良いことではない」という題名で「本来なら存続が難しいはずの企業が延命するケースが増え、経済の新陳代謝が進まないという弊害もある。実は、これが日本経済の好循環を阻害している可能性がある」と述べ、「アベノミクスの役割はこのような非効率部分を改革するもの」と言っています。一般論として読めば、確かに、「産業構造の変化についていけない企業は退場」などという市場法則として理解する旨もあるでしょうが、前述の大内力の分析の視点から見れば、中小企業こそ産業構造転換の“生贄”という役割を本質的に背負わされている、ということになります。国家予算に「中小企業対策費」という名目はありますが、「大企業対策費」というものはありません。表現を変えれば、「中小企業庁」という役所はありますが、「大企業庁」という役所はありません。それは必要ないからであり、何故なら「大企業関連予算」は国家予算の名目すべてに内包されているからです。儒教道徳心の強い日本人のメンタルな部分を効果的に利用する手法が、高度成長期には一時的にであれ功を奏し我が国経済が成長したという事実はありますが、その根底にはこのような国家と大企業の意図がいつも脈々と流れているということを知る必要があります。さて、次期総理と言う呼び声も高い、若き政治家の小泉進次郎氏はこのように発言したそうです。「国民はいつまでも国に頼るな。自らを律し、自ら立て。それが自民党の哲学であり信念だ」国民を中小企業に置き換えても彼の信念を変えたことにはならないでしょう。「頼らないから君たちも我々には必要ない」という反論も出来そうですが、個人的範疇はともかくも、如何せん相手は「権力」を保持しており、そのさじ加減でどうにでもなる組織体としての中小企業が、このような思考を行う政治体制及び経済体制に対してどのように向き合えば良いか、ということは非常に重要なことと思われます。果てしない競争の中で没落・発生のサイクルに組み込まれるのではなく、「社会」をお互いが共存・共有する基盤として捉え、「競争」のマネジメントではなく、「協同」のマネジメントを行うことの必要性を感じます。
<低炭素都市ニュース&レポート 7月号>

オリジナルと複製

ちょっと前にあったオリンピックエンブレム「コピー」騒動ですが、現代の技術はいやおうなしに「複製」を極限に可能とするものです。複製の技術を歴史的に見れば、その始原はまず「写真」に求められ、次いで写真(静止画)を動画化する「映画」が指摘されるでしょう。最近では、立体表現の3Dプリンターなるものまで現れ、果てはDNAのコピーと言う生命原理までをも超越する「複製技術」の進展には驚かされると同時に空恐ろしさも感じるものです。ところで、ドイツの著名な文芸評論家のベンヤミンの著書に『複製技術時代の芸術作品』(1936年)という面白い本があります。ベンヤミンの生きた時代は第1次世界大戦前後のファシズムが勃興して来る時代ですが、彼は「複製の芸術」を新しい時代の民主主義的価値としてそれに評価を与えています。彼に言わせると、「芸術は当初礼拝的価値であったが近代の大衆化により展示的価値を持った。これによりそれまでの一部のものの対象物から万人の対象物と言う性質の変化を遂げた。」ベンヤミンは、「複製技術」の大衆化がそれまでの権力者にその価値を所有されていた「芸術」の解放を述べている訳ですが、しかし、彼が民主主義の発展として捉えた「大衆化した芸術」である映画芸術ヒットラーはじめ、その後のファシズム政治的プロパガンダの強力なツールとなっていることは皮肉なことです。ところで、確かに、現代の複製技術の粋であるコンピュータの発達は、普通の人をも”創作者”に変えることが可能になっています。いろいろなソフトを使うことにより、”自分だけの”作品を作ることができますが、その作品は「コピー&ペースト」という機能を抜きには語れないものです。先日の「コピー騒動」はこの技術の使いまわしが疑われ、芸術の「ホンモノ性」が問われた訳ですが、先述のベンヤミンはこの「ホンモノ」についてこうも言っています。「「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」という性格によってつくられる。」(上記同書)即ち、「いま」という時間性と「ここ」という空間性にオリジナル(ホンモノ)の本質を見ている訳ですが、「複製技術」はまさにこの時間と空間と言う制限を取り払ったものと言えます。ここから先は非常に思弁的というか観念的世界になるのでこれ以上は追求しませんが、複製技術があふれかえる現代社会は単純に「オリジナルが良くて複製は悪い」という道徳的倫理的規範では判断できない時代になっていると言えるでしょう。ベンヤミンの時代は「複製技術」を大衆への解放として称賛したのですが、万人が芸術家になれる時代を果たして「平等」「自由」といえるのかどうか。いや、逆に言えば、究極の芸術の姿が「自由・平等」かもしれません。もう一度ベンヤミンの言葉に戻りましょう。彼はこうも言いました。「人間の製作したものは,たえず人間によって模造されたのである。このような模造を,弟子たちは技能を修練するために,巨匠は作品を流布させるために,また商人はそれでひと儲けするために,おこなってきた。」グローバル化が進む中で、あらゆる事象が「複製化」している時代(いま)と社会(ここ)は果たしてオリジナルと言えるのかどうか。先日のイギリスの「EU離脱」も例えて言えば、複製から離脱してオリジナルな英国を目指したものと言えるのかもしれません。果たして私自身もオリジナルと言えるのか。もしかしたら存在そのものが模写かもしれない。現代社会は、「オリジナル」と「複製」という両極端な価値の間で揺れ動いています。 �
DAIGOエコロジー村通信7月号より(一部加筆)