離婚劇としてのイギリスEU離脱

イギリスがEU離脱する。我が国を含む先進国の報道をみていると悲観的な論調がほとんどであるが、その根拠は「カネ」でしかない。EU離脱が「やれ株価が下がる」「やれ円高だ」「日本企業が危ない」、、、、挙句の果てが、「年金がもらえなくなる」という脅しにも似た解説も見受けられる。今回の離脱劇の底には、「金融経済vs実体経済」「大企業vs中小企業」「中央vs地方」というグローバル“金融”経済が引き起こした資本主義の断末魔を象徴しているように思える。しかし、見方を変えれば、「21世紀の民族自決運動」とも言える側面をもっているのではないか。「民族自決」の概念は、第1次世界大戦後、1918年にウッドロー・ウィルソン大統領が米国議会で提示した「14か条の平和宣言」にさかのぼる。またこの平和宣言は、レーニンも民族自決を認めた「平和に関する布告」に対する資本主義国側からの回答でもあった。その後、第二次世界大戦以後は、旧植民地国が宗主国に対する、またある国家内における少数民族独立運動の基本的理念として国連でも正式に認められたが、感覚としては「大国家vs小国家(or少数民族)」という公式のように思えるが、イギリスのような大“資本主義”国家においても、グローバル経済は“民族”を凌駕する勢いで浸食しており、結果として民族内で「富者」と「貧者」が二分化されている。或いはグローバル“金融”経済とは、国家を超え、民族を超え、ただカネだけが絶対的な価値を持つ体制のことであり、言い方を変えれば「カネをうまく使えるもの」と「カネに振り回されるもの」の二分化がすすんでいるのだろう。特に、20世紀に「先進国」という名を頂いた国ほどこの“不平等化”は進んでいるものと思われる。社会主義革命を夢見るものにとってはこの状況が「プロレタリアート(貧者)の結集」に結びつくところか、「国粋主義」と結びつくことがはなはだ不満であり、不可解であろうが、「国家・民族」の乗り越え(消滅)はマルクス主義の目標でありまた課題でもある。今回のEU離脱は単純な左右イデオロギーでは到底理解しえないだろう。先述のレーニンは民族自決について、面白いたとえ話をしている。彼は「民族自決」を夫婦の離婚の権利に例えて曰く「離婚の権利を認めるのは、離婚を義務づけるためでもなければ、うまく行っている夫婦に離婚を説いて勧めるためでもない。それは、両性の真に対等で民主主義的な結婚を保障するためのものである。離婚の権利が認められてはじめて両性は真に民主主義的な基盤の上で結婚生活を送ることができるのである。いつでも離婚することができるにもかかわらず、あえて離婚を望まず、みずから進んでその結婚生活を続けるというところに自由意志に基づく真の結婚生活がありうるのであり、その方がかえって夫婦の結びつきは強まるのである。それとちょうど同じようにいつでも分離することができるにもかかわらず、分離せずにあえて大国家の中にとどまるというところに真に民主主義的でより強固な民族関係がありうるのである。つまり、分離の権利の保障が自発的な結合を促進するのである。」(丸山敬一著「民族自決権の意義と限界」(有信堂高文社 2003))離婚経験のある私としては少々耳が痛い話である(笑)が、なかなか面白いたとえ話である。現代の感覚からすれば若干の家父長的道徳的にも聞こえなくはないが、しかし「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉もある。レーニンは、「離婚できるけれどもやはりカネのあるやつ(大きな国)と一緒の方が幸せだよ」と言っているのであるが、イギリスは「私にもプライド(主権)と言うものがあるわよ!」と言って別れ話を持ち込んだのである。さて、世界中はこのような「離婚劇・話」があちこちで出始めている。当のイギリスも今回の離脱でスコットランド独立がまた再燃する可能性があり、EU離脱ドミノ現象で世界に及ぶことも否定できないだろう。米国のトランプ現象も一種の離婚話でもある。日米同盟などと未練たらしくしないで、安倍晋三は堂々と「日米離婚」を言えば良いと思うのだが、独立心のないものが新たな船出など出来る訳はない。ここは沖縄も長年DVのように虐げられてきた“本土・日本”からの離婚を真剣に考えてはいかがか。
<付記>「国家」と「民族」という問題は歴史的にも現代に至るまでなかなか解決できない命題でもあるが、カネ=資本主義が「国家」を僕として扱うようになった現代において、民族問題が先進国からも出て来たことの意味は大きく深いと思える。

「電力自由化」の裏読み

この4月からこれまでの大規模需要者にのみ対象だった電力小売り規制が緩み、一般家庭も対象となったいわゆる「電力自由化」制度が始まりました。これを受けて、事業チャンスとばかりに4月時点での電気事業者登録数は大小合わせおよそ800社余りに上ります。これには、営利狙いの企業ばかりでなく、「電気代が安くなる」という現実的対応の消費者から「脱原発へシフトさせたい」という理念的対応の消費者まで含め、一般消費者も概ねこの制度を歓迎する傾向にあります。しかし、この制度を「ウソ」とメッタ切りにしたのが 認知科学者の苫米地英人氏です。彼は今年倒産した新電力大手の「日本ロジテック協同組合」の破産劇を引き合いに出し、「託送料」の仕組みを「鵜飼の鵜」と喝破しまししたが、彼の指摘はある意味するどいというか「確かにそう言えば、、、、そうだな」と納得させるものです。彼の指摘をちょっと簡略して羅列してみましょう。

・・・・・・・(以下苫米地氏の発言)・・・・・・・

<【新電力】は「託送料」の上乗せがある限り、【東電】や【関電】に価格競争で勝ち目がない。>
・・・・【新電力】っていうのはこの地域だと【東京電力】から「電気を買う」わけです。そして送る「送電料」も実は【東京電力】の送電線を使うんです。で、最後に要る「契約」だけ自分で取ってくるってことは、【東電】にとってはコレは“鵜飼いの鵜”ですよ。自分達の営業マンのコストが無くなって、彼らが勝手に自由競争で売ってくれるわけで。で、必ず送電料これ「託送料」って言うんですけれども送電料は彼らから取れるんですよ。電気は【東電】が「電気代」を決めるんで。コレは【東電】が儲かるだけですよね。

<新電力大手がなぜ撤退するのか?>
・・・・『ENEOSでんき』火力発電は「脱原発」には有望だが、【東電】との関係上、価格競争は元々期待できない。しかも【東電】の火力発電の原油をどこから買ってくるかっていうと【JXエネルギー】から買ってくるんで、最大顧客ですから、ソコと喧嘩するわけないじゃないですか。【東京ガス】【大阪ガス】のガス系など論外です。『LNG』は今「1バレル=30ドル」の『石油』に比べたら遙かに高くなる。逆に【東電】は既に「原発は償却が終わっている」「水力発電も(償却が)終わってる」んで、ということは『LNG』の【東京ガス】なんか勝ち目がないんですよ。

<大規模発電と小規模発電>
・・・・大規模発電には新規参入が事実上不可能なコストが掛かる。『原発』の場合はそのコストを料金に乗っけていい・独占地域でというやり方があったので【東電】【関電】などはやってきていた。小規模発電では最初から経済スケールから電力会社の大規模発電に価格競争力で勝てない。つまりは、事実上「自由化はされていない」ことになる。「電力自由化元年」という名目で、送電線使用料(託送料)で【東電】【関電】などの既存電力会社を潤すシステムが今回の大手【新電力】撤退の背景にある。

<「電力の自由化」を本当に進めるためのステップ>
・・・・全国を60Hzに統一し、【東電】と【関電】に自由競争させるべき。単に発電機というのは1分間に60回すか/50回すかのだけなので【東電】も明日から「60Hz」に出来る。日本の家電は全て「Hzフリー」と言って当たり前だが関東用/関西用があるわけでもなく、周波数に依存していない。唯一、東京や大阪の町工場のような所は「Hzフリー」ではないが、それらは補助金などで処理すれば圧倒的に安く済む。明日からでも統一すればいい!

<外国からの電力購入>
・・・・「60Hz」にしてしまえば、アメリカから電気が買える。ロシアからも中国からも買える。韓国からも買える。海底ケーブルで電力を引っ張ってくれば済む。それをやらせないためにわざわざ「50Hz」と「60Hz」に分けている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

引用が長くなりましたが、「送電線」の問題は、当初から制度創設時に議論があり、経産省でも2020年を目標に「発送電分離」を目論んでおり、東電はその為の子会社作りとホールディング・カンパニー制度をこの4月より導入して、虎視眈々と自企業への有利な状況を作りだそうとしていますが、他の地域電力ではまだ足並みがそろっていないようです。それと、もう一つの苫米地の指摘の「50HZ VS 60HZ」のことは、灯台下暗し、でした。確かに周波数の問題はこれまであまり意識されていなかったように思いますが、電力の海外購入という手法の善し悪しの議論は別として、東電と関電がこの周波数の違いをいいことに「電力自由化」を逆利用しているとすればはなはだ問題と言わねばならないでしょう。苫米地氏の表現した「鵜飼の鵜」は事業者だけでなく、一般消費者たる我々自身の姿でもあることを認識しないといけません。

≪補論≫
「電力の自由化」とともに「電力の地産地消」ということも言われます。本稿の「送電」問題は、需要地を大きなエリアとして捉えることから起こる問題でもありますが、逆に言えば需要地を限定的に絞り込めば、送電設備のコストもかなり抑えることが可能に思えます。もちろん、緊急時の対応や地域ごとの需要構造の差については、それぞれの地域電力会社が相互に関与融通しあう技術的且つ制度的な仕組を作ることも可能でしょう。そういう意味でも経産省の「発送電分離制度」に対する姿勢と対応を時の政権とともに注視し続けなくてはならないでしょう。

※苫米地氏発言資料はMXテレビの番組「バラいろダンディ」(2月25日放送)での氏の発言を書き下ろしたものです

≪低炭素都市ニュース&レポート6月号より≫

マルコムXとカシアス・クレイ

モハメド・アリが死んだ。世代的には一世代上になるが、やはり同時代のヒーローというよりアンチ・ヒーロー的存在だった。「モハメド・アリ」という名よりは、「カシアス・クレイ」いう名の方が私にはしっくり来る。彼がヘビー級世界チャンピオンになった頃、日本でもプロボクシングはプロ野球や大相撲と並ぶ子供たちが熱狂するスポーツであり、1967年のベトナム戦争兵役拒否の行動は、当時15歳の私には、並んで人気だったビートルズとは違う“カッコよさ”を感じたものである。彼が、一躍その名を示したのは、1964年の世界ヘビー級王座を獲得した試合だろう。当初の予想を180度裏切る勝利に、ボクシング関係者・メディアは衝撃を受ける。対戦相手のソニー・リストンの勝を信じて疑いもせず、ちなみに試合前の賭けの割合は1:7で圧倒的にリストン有利だった。
ところで、この試合には、カシアス・クレイイスラム教に改宗する動機を授けたともいえるマルコムXが8000の観客席の最前列に近い7番の席で観戦していたことはあまり知られていない。カシアスとマルコムXが直接出会ったのはこの試合の2年前のデトロイトにおけるイライジャ・ムハマドの講演会だった。1960年のローマオリンピックで金メダルを取ったカシアスは有名であり、本人もそのことを相当自覚していたらしく、マルコムに対して「ぼくがカシアス・クレイです」という。マルコムは、その時弟のルドルフを伴って一緒にやってきたこの若い兄弟に好感を示すのだが、実は彼は、「カシアス・クレイなどという名前は聞いたこともなかった」(自伝「マルコムX」)と述懐している。当時のマルコムXが活動していたネーション・オブ・イスラムでは、教団の長であるイライジャ・ムハマドが「いかなるスポーツにも反対せよ」という指令を出していたからだ。しかし、カシアス・クレイはその後も、折に触れ、イスラム寺院や寺院が経営するレストランに頻繁に姿を見せ、その素直な行動と人柄はマルコムXにも“乗り移り(マルコム)”、マルコム家にも行き来するようになるほど、二人は親しくなるのだった。そのマルコムXをカシアスは、初の世界チャンピオン戦を前にフロリダマイアミに、マルコムXの妻ベティとの結婚7周年記念の贈り物として賓客招待する。この時期は、マルコムX が心底から傾倒し信じていた教団の長のイライジャ・ムハムドと袂を分かつ決心をする時期であり、マルコムXの情緒はかなりショック状態にあった時だけに、彼にとっては気力を回復する切っ掛けともなる。そして、カシアスの試合は、「イスラム教徒の優秀さを示す、即ち精神が体力に打ち勝つことを証明する」ことであり、これを手伝うのはアラーの思し召しにかなうことだと確信する。何故なら、これには二つの理由があったからだ。一つは先述したように、ボクサーとしての実績からもリストンの優位は歴然としていたこと、二つ目は、リストンがチャンピオンになった時の試合時に、対戦相手のフロイド・パターソンとともに、「精神的助言者」として白人の宣教師と一緒に取った写真を公開していたことだ。何故なら、パターソンもリストンも黒人だが、基本的に白人の教義であるキリスト教を媒介として、「黒人と白人の融合主義」が一つの大きな流れとしてあったからだ。マルコムXがこの「融合主義」をどれほど憎んでいたかはイスラム教徒としての彼としては当然のことだった。マルコムはカシアスにこう言った。「この戦いは本物だぜ」と。そして「キリスト教イスラム教がリング上ではじめて相まみえるんだ。いわば現代の十字軍だ。一人のキリスト教徒と一人のイスラム教徒が向かい合って立ち、テルスター衛星のテレビ中継で全世界の人々が成り行きを見守るんだ。アラーの神がこのようなことを選ばれたのも、チャンピオンとして君をリングから下させようという思し召しなんだ」。これを受けたカシアスが試合前の計量時に「俺の勝は予言されているんだ!負けるわけがない!」と叫ぶ。この試合の後、翌年(1965年)、リストンと対戦したパターソンは、カシアスに対戦を申し込むが、パターソンは黒人キリスト教徒として、「白人の意のままにならないイスラム教徒黒人」のカシアスをつぶすべく、「タイトルをアメリカに戻す」と発言する。しかし、試合はカシアスが12回TKOで勝利するが、カシアスはパターソンを倒す決定打を放つことなく執拗に攻め、レフェリーストップとなる。マルコムXはパターソンとカシアスの試合を見ることなく暗殺されるが、このような黒人同士の闘う状況をみて、「洗脳された黒人キリスト教徒が味方でもなんでもない白人の代わりに戦う気になる悲しい一例」として、「融合主義」の底に流れる白人支配の本質を見抜いている。
マルコムXの暗殺については、イスラム教団内部とFBI(CIA)が裏で仕組んだことがわかっているが、モハメド・アリは、そのような構図を知りつつも、イスラム教へ帰依した信心を固く守り、その後の兵役拒否や各種の慈善事業など、「平和主義」「人類主義」を貫く活動を一貫して行っている。カシアスの母親のオデッサは、敬虔なクリスチャンだったが、息子のイスラムへの改宗にはなんら干渉、非難することなく、むしろ励ますように「肝心なことはあの子が神様を信じているということよ」と言っている。 マルコムXカシアス・クレイ、歳の差17歳。しかし、彼らは60年代の米国における黒人迫害のまっただ中で、また、黒人社会そのものが分断、階層化が進もうとしている中で、イスラム教に自らの存在の根源理由を求めて、戦い続けた。マルコムXマーチン・ルーサー・キングは黒人活動家として暗殺されたが、カシアスもその可能性が無かったとは言えないだろう。 果たして黒人初の大統領となったバラク・オバマは、自らのルーツと同じこの偉大なる二人の黒人の意思をどこまで理解しているのだろうか。

オバマ大統領の広島でのスピーチについて

先日のオバマ大統領の広島訪問及びスピーチについては、少し考えるものがありました。彼のスピーチは日本のメディアはもちろんのこと、海外メディアでも概ね評価されたものとなっています。また多くの日本人が「感動した!」と思っているようです。確かに、スピーチは表面的には崇高な言葉が飛び交い、そういう意味では格調も高く説得力に富んでいると思います。しかし、メッセージを通して語る主語が「原爆投下を実行した国の大統領」ではなく、ほとんどが「われわれ」或いは「人類」という主体をぼかした抽象者(第三者)となっています。彼は、任期が短いとはいえ現職の米国大統領であり、現実の国際政治の世界でもっとも権力を有している人物です。少なくとも、彼が実現(実行)できる具体的な策は数多くあるはずですが、スピーチに占められた言葉、ちりばめられた言葉の中にはそのようなものは一つもなく、また彼自身の”大統領として”の具体的決意も見出すことは出来ませんでした。もしもあのスピーチを例えばローマ法王が行っていたのであれば、基本的な人類の道徳論としてそれほど感覚的に違和感なく聞けるかもしれません。或いは高校生の発言であれば、それこそ彼(彼女)らのこれからの未来とダブらせ期待できる発言だったでしょう。私は、オバマのスピーチを映像を通し、また全文を新聞を通して何度も読み返しましたが、そのたびに湧き起って来るものは言葉の「空しさ」であり「狡さ」でした。彼はあのような言葉を20分近くに渡って語りながら彼の傍には、いつでもそのボタンを押せる状態にある「核兵器発射装置」を入れたケースを持つ軍人がいたことはあまり知られていません。片方で「人類平和」を語りながら片方で「人類破滅」の鍵を握る彼は、一体何をしに広島へ来たのでしょうか。彼は言いました。「高邁(こうまい)な理由で暴力を正当化することはどれほど安易なことか!」あなたこそがそれをまさに実践しているのではないか。彼は今「核兵器近代化計画」を推進中です。「限定核」とも言われる小型核兵器ですが、爆発力は小さくも命中精度やステルス性、運搬システムの能力を高めることが可能な核兵器です。彼は、この核近代化計画は新たな核兵器製造ではなく、「近代化から削減していく努力を推進していくことが核兵器の保有量を減らす一番の近道」という理由を述べています。そのようなことは現実の国際政治の世界に従事するリーダーとしては当然のこと、という理解もあるかもしれませんが、少なくとも民主主義社会における政治家とは言葉という武器を最大限に使用するものであり、市民はそのようなリーダーの言葉と行為(行動)の一致にこそ政治家の真の誠意と勇気を見るものです。再度言います。彼のスピーチは確かに素晴らしいものでした。だからこそこう言いたいのです。「だからあなたは具体的に何をするのか!」と。
彼のスピーチは面白い仕掛けになっているように見えます。彼のスピーチを文節ごとに区切ると、そのたびに「だからあなたは何をするのか!」と問いかけることができるようになっています。彼のスピーチをそのまま表面だけの美辞麗句を称賛するのではなく、彼のスピーチに対するその問いを我々は発しないといけないし、彼はまた自らが発した言葉の意味を行為として示さなくてはならないでしょう。それが、現職の大統領と言う地位ではないのでしょうか。もし、単に道徳論を高邁に話したかったのであれば、大統領を辞めてから来れば良いのです。

奄美・沖縄「独立論」の裏にあるもの

またもや沖縄で起きた米軍による殺人事件。いつになったら「沖縄問題」は解決するのか。果たして「解決」とは一体どのような状態を指すのか。頭がうまく回らない中で何とか考えてみようと思い書いた。
■支配権力側の視点
沖縄返還から45年が経った。同じ敗戦により、奄美・小笠原も連合軍(実質米軍)の占領下になったが、奄美は1953年12月、小笠原はその15年後の1968年6月に返還されている。奄美が比較的早く返還されたのは、戦後の新たな国際関係の緊張(朝鮮戦争ベトナム戦争)が、沖縄・小笠原に軍事戦略的に重要な位置付を米国(米軍)に与えたからだ。周知のように、米国(米軍)は占領後沖縄の強引な土地収奪により、対ソ連、中国をにらむ基地づくりを急激に進めた。この時点での国家としての日本は、敗戦国と言う立場から表面上は「なすすべがない」状態であったのだが、敗戦後の連合国側の内部対立が占領国である米国(米軍)の立場と思考を微妙に揺るがせ、敗戦国日本の戦後処理をいろいろな場面で矛盾させた。それは例えば東京裁判における天皇の責任問題の忌避であり、また「全面講和・単独講和」論の背景にある沖縄の半永久軍事基地化(サンフランシスコ条約3条)である。というのは、少なくとも占領直後の米国の意思は、沖縄は「日本帝国主義から支配された少数民族」であり、日本からの「解放」と将来の「独立」を目指すべきである、というものだったが、東西冷戦の勃発は米国内の意見対立(国務省と米軍)を徐々に生んでいき、当時のマッカーサー司令官解任はその一端でもある。このような戦勝国側の思惑と不統一は、占領国米国の日本に対する「アメムチ策」によって、いわゆる売国的CIA要員としての政治家や官僚、実業家等をコントロールしながら日本を自国に有利に活用するという戦後日本の対米従属構造を形成していく発端となるのだが、コントロールされた側の連中がそのことを積極的に逆利用する「新国家再建」を思う“国士”なのか、或いは自己保身と裏切りの買弁なのか、その正体は現在も「自由民主党」という隠れ蓑の中にうごめいているのである。ついでに言えば、戦後の沖縄と日本を実質動かしているのは米国ではなく「米軍」である。
奄美・沖縄人民側の視点
さて、このような支配権力側の視点ではなく、被支配民衆の側どのように思っていたのだろうか。いわゆる「独立論」と「復帰論」及び「(米国)属州論」に現れる民衆の側の対応を論じたい。占領直後、米軍は奄美・沖縄を大きく二つのエリアに分け、奄美沖縄本島を北琉球宮古八重山群島を南琉球として、この4つの群島単位での軍政府を設置し統治するという方針であり、占領後の各地域の在り方夷ついては地理空間的にも各群島での個別の動きが現れることとなる。少なくとも「民主制導入」を掲げる米軍政府としては各地域(群島)における政治活動を最低限であれ認めない訳にはいかず、群島ごとに地域政党が組織されることになる。以下にその概要を示す。  
奄美群島>   
・「奄美共産党」(非合法)1947年 ・・・独立論(反米)から復帰論   
・「奄美大島社会民主党」1950年 ⇒「琉球人民党」大島地方委員会1952年・・・復帰路線
 <沖縄本島>   
・「沖縄民主同盟」1947年 ⇒「共和党」合流1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「沖縄社会党」「琉球社会党」1947年 ⇒「社会党」1947年・・・独立論(親米)   
・「沖縄人民党」1947年 ⇒※「奄美社会民主党」合同 1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「共和党」1950年 ⇒解散1952年・・・独立論(親米)  
宮古群島>   
・「宮古社会党」1947年(1949年解散)・・・独立論(親米)   
・「宮古民主党」1946年(1950年解散)・・・※自治論   
・「宮古青年党」1947年(1948年解散)・・・※ユートピア論   
・「宮古自由党」1949年⇒「沖縄社会大衆党」合流1952年・・・※民政府与党  
八重山群島>   
・「八重山農本党」1946年(1948年解散)・・・※農本主義   
・「八重山労働党」1946年(自滅)   
・「八重山民主党」1948年 ⇒「琉球民主党」合流1952年・・・※民政府与党   
・「八重山人民党」1948年(「八重山自由党」改称1950年)・・・※民政府野党
この一覧からもうかがえるように、占領直後の奄美・沖縄における人民側の意識は幅広い。しかし、それは戦後の混乱状況から「どうしてよいかわからない」「とにかく生きること」という目の前の切実な欲求が最優先していることは想像に難くなく、同じ「独立論」或いは「復帰論」でもその方向性についてはそれほどまとまったものではないだろう。海を隔てられている条件の中で相互の行き来もままならないまま、異国人の占領という状況において、冷静な独立論或いは復帰論が討議され醸成されるはずはないが、逆に言えば、「とにかく生きる」という本能的な底力が、上に示したような多彩な地域政党が現れる要因でもあった。それに加え、中世を始原とする大和・薩摩による支配、明治維新における琉球併合等の力関係の歴史が奄美・沖縄人民の意識の底に「(占領を)大和支配から離脱する機会」と捉える発意としたことも間違いないだろう。一方、「民主化」を注入しようとする米国政府は、特に沖縄の若い知識人を米国留学させる制度を発足させ、沖縄内部からの「民主化」を図ろうとする。この留学制度には後の沖縄県知事大田昌秀もいた。しかし、日本帝国主義による一方的な戦争駆り立てと陰惨な敗北、そして最初は「解放軍」としての姿勢も垣間見せながら、国際情勢を背景に急激に占領政策の方向転換(日本民主化→防共の砦化・半永久基地化)が、奄美・沖縄人民を結果として「独立論」から「復帰論」へ総意として転換集約させていく。またこの段階で一定の評価を得ていた「属州論」も徐々に消えていく。このような動きに、当時の奄美・沖縄のあるべき方向について政治的或いは精神的にもヘゲモニーを持っていた左翼勢力側も当初は米国を「解放軍」として評価し、一部においては信託統治の導入を肯定し、そこから独立を図るという意見も見られたが、「祖国復帰」という路線を明確にしていく。左翼勢力側には、東西冷戦と言う国際状況を背景にした、日本共産党内の路線対立も「独立論」「復帰論」へ大きな影響を与えたことは否定できないだろう。奄美・沖縄の知識階級は歴史的に或いは民族的に左翼の影響が大きく、現在にいたっているのだが、今においてもこの「復帰論」の総括はされておらず、沖縄における基地を巡る様々な問題に対するある意味その責任の一端を(左翼は)担っているといえる。
■歴史を構成する要素
さて、奄美・沖縄の占領直後の状況を私なりに整理してみたが、現実はこのように単純に言えるものではない。この世に生きる一人一人の人間の意識と行動は合理的でもなければ機械的でも無く、さまざまな不条理の積み重ねの上に歴史の表層として、米国、米軍、天皇、官僚、政治家、実業家、革命家、、、、そして人民と、その大小にかかわらず、全ては歴史と言う大海の中でそれぞれが思惟し判断した結果として様々な事象が現れるものである。アナーキスト大杉栄の論文『主観的歴史論-ピヨートル・ラフロフ論』の中に、歴史を構成する要素として「三個の範疇」の区別を述べている。すなわち、①過去の遺物 ②特殊の時代相 ③将来の萌芽である。何のことはない、単に「過去」「現在」「未来」を言葉を変えただけではないか、と思う向きもあるかもしれないが、上述した様々な対象はこの3要素を内部に持ち、そのそれぞれの強弱とともに、対象同士の相互の関係性(たとえば米国と天皇、官僚と米軍、革命家と人民、、、、)相互の活動が複雑に絡み合って歴史は作られていく。そういう観点からすれば、現状において、米国政府の①②③、日本政府の①②③をかなり的確に見分けられるように思える。と同時に、沖縄人民自身も自らの①②③を積極的に自覚する必要があるのではないだろうか。戦後70年、そして「復帰」後45年を経ようとしている今日、消えたかに見えた「独立論」がにわかに浮上してきた歴史的な意図が果たしてどこにあるのかを、占領直後のいまだに解明されていない「復帰論」へ傾いた経緯の検証が必要に思えるのである。
■追記
上述の説明に唐突に大杉栄を持ち出したのには訳がある。「復帰」した奄美において過去一つの小さな事件があった。時は少し遡り、1926年(大正15年)の6月15日の大阪毎日新聞の一つの記事だ。見出しは『薩南の孤島に大杉栄の碑。一周忌に建てたもの、このほど発見される』である。少し長いがその全文を記す。  
「大島諸島の中の一孤島、遥かに太平洋に面した百尺余りの断崖に建てられていることをこの程、鹿児島県大島郡東方村字蘇刈に漕ぎ着け、大杉の為に心ばかりの追悼会を催した上、同所に建てて引き上げたもので、碑は高さ二尺あまり、表面にローマ字で、大杉栄のOSと刻み、“西暦千九百廿四年九月十六日追悼碑”と、日本文字で刻まれている(東京発)」
この記事で、鹿児島県議会は紛糾したことが奄美市の資料に記述してある。(『名瀬市誌下巻』)この大杉栄に影響を受けた奄美の若者たちの中の一人の武田武市等が建てたものだ。武田は奄美アナーキストとして当時の奄美における薩摩(鹿児島)圧政に敢然と闘う。その武田の娘の井上邦子氏は今でも健在だが、亡き父の精神を受け継ぎ、占領後の奄美復帰運動を長く戦った一人だが、井上氏によると奄美における大杉栄の碑の話を大杉と伊藤野江の4女の伊藤ルイにも伝えたそうだ。奄美・沖縄を巡る歴史の大きな物語の中にも、このような小さくはあるも人間存在の根源を示してくれる物語があるのである。私個人としては、奄美人として今でも「奄美独立」を観念ベースではあるが保持している。今、政治的にもまた歴史的にも転換点を迎えようとしている「沖縄」の問題を人民サイドからの文字通り主体論として「復帰」した「日本」とは何者か、「独立」とはどこから、そして誰からの「独立」なのか、を明確にする必要を感じている。
※参考資料
奄美の奇跡』(2015年WAB出版)
『新たに発見された沖縄・奄美非合法共産党文書』(2001年大原社会問題研究所

低炭素社会へのアプローチ考

平成24年に独立行政法人科学技術振興機構が出したレポート『低炭素社会づくりのための 総合戦略とシナリオ』の中、「6章3.低炭素社会構築促進への社会システム・デザイン手法の適用」では、低炭素社会のイメージとして、(低炭素社会とは)「資源浪費型の人間活動が飛躍的に増大し、自然環境の自己調節機能の範囲を超え始めた」ことへの対処する「行動としてのテーマ」であり、「世界は技術中心のロジックから社会の価値観との関係で技術進歩を捉える時代に変わろうとしているのであり、ある意味で明確なパラダイム転換が起ころうとしている」という認識の下で、もう一つのパラダイム転換として「地域間、及び分野間の相互連鎖」を挙げ、この二つのパラダイム転換へのアプローチとして「社会の価値観を組み込んだ技術開発と活用を目指した課題解決を成し遂げる」ことの必要性を問うている。しかし、社会を“相互連鎖の仕組み(システム)”という捉え方をしているものの、「社会システム」の概念をその経済的或いは政治的或いは人間性の根本的在り方そのものを問う“社会全体としてのシステム”として捉えてのではなく、「消費者・生活者への価値創造と提供の仕組み」という科学技術振興機構自身が「部分的」と限定しており、自らも「供給サイドに立った発想」と認めている。「社会価値観(の変化)」を商品開発の分野に限定し、そこへ消費者を誘い込み、そして囲い込んでいくという、このような発想では、「低炭素社会」とは、単にマーケティング戦略の域を出ず、根本的な解決にはならないと思われる。片方で、「地球の危機」或いは「人類の危機」を声高に叫びながら、相変わらず「核兵器開発」やさまざまな「軍事戦略」に名を借りた戦争状態を創出しようとしているパラドキシカルな現実の国際社会の問題は、いみじくも上述の人類を含む自然環境における自己調節機能の崩壊を示すものであり、その要因こそ、社会を相互連鎖とみる視点の欠如と思われる。確かに数学的には、部分の総和として「全ての国家の危機」或いは「全ての国民の危機」が無くなれば「地球の危機」或いは「人類の危機」は無くなるという論理にはなる。しかし「地球の危機」と「国家の危機」或いは「人類の危機」と「日本人の危機」は果たして同じ性質のものだろうか。「地域間、分野間の相互連鎖」とは言い換えれば「社会は無数の関係性で成り立つ」ということであり、科学技術振興機構の同レポートのなかでも「それは産業や学問などの分野間の相互連鎖である。医療、情報、金融、エネルギーなど先端分野のそれぞれの最適化を図れば全体最適につながるということはありえず、それらの分野間の相互連鎖によるフィードバックを含んだダイナミック・システムとして捉えないといけなくなってきている」と述べられている。「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」とは単にco2を出さない技術開発と販売戦略ではなく、人類の根本、或いは個々人にとっての人生そのものへ問いかけるものとなっていることを認識しなくてはならないだろう。科学技術振興機構自身が一分野であり、また現実の制約の中では、同レポートの大いなる根源的提起にも関わらず自らが「限定」と認めざるを得ない手法しか出てこないことがこの命題の困難さを物語っているのだが、このような一つの誤謬は、個別性の総和を全体性と見る要素還元論にあると思われるが、「低炭素社会」とは部分の総和ではなく、部分同士の無数の関係性で縫い合わされた織物(web)というホリスティックな概念へのアプローチとして捉えるべきと思われる。言い換えれば、生物学で言う創発の概念を引き込むような仕組みこそが、「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」と言えるのではないだろうか。

法衣と権威に弱いのは誰か!?

一休さんの頓智ばなしは子供時代に聞いてもなかなか面白いものですが、世の中のいろいろな経験を重ねた今でも、読み返すと子供時代の解釈とはまた違った、言い換えれば奥が深いというか微妙な人生の機知のようなものも感じさせてくれます。その一休さんのとんち話の中に、「法衣」の話があります。
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≪豪商から法事の招きを受けました。一休さんは、ボロボロの普段着の法衣で訪ねました。それを見た店のものから、追い出されました。そこで、一休さんは、最高位の法衣を着て、再び訪れると、丁重なもてなしを受けました。しかし、一休さんは、着ていた法衣を仏前に置いてそのまま帰ってしまいました。≫
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さて、私が経験した-逸話その①-
昔、某霞が関役所の委員会メンバー選定にあたって役人と協議した時に、「(委員のメンバーとしては)やはり東大か、せめて早稲田、慶応クラスの先生がふさわしい」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その②-
これも昔、ある地方の役所の仕事を行っていた時のこと。「上司を納得させたいのだが、本省の係長か課長クラスをご存じありませんか?」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その③-
これは誰でも知っている話。ご存じ水戸黄門。身なりの質素な爺さんが説教しても聞かない悪代官の前で「この紋所が見えないか!頭が高い、控えおろう!」というあの決まり文句。これは説明の必要がないでしょう。

このような話は誰でもご自分の経験の中で日常的に持っているものであり、その例をあげれば枚挙にいとまがないでしょう。
これを以て「日本人は権威に弱い」という御馴染みの文句が出るのですが、哲学者の内田樹は逸話③の水戸黄門に関して面白い解釈をしています。彼が言うには、印籠に翻弄されるのはいつもワルモノばかりであり、逆に庶民は最後はご隠居さんと同じ目線でものをみている。ワルモノたちは彼ら自身が「根拠のない権威の名乗り」によって現在の地位に達し、その役得を享受しているので、「あなたの権威の由来を挙証せよ」と他人にいうことができなくなっている。この水戸黄門のワルモノたちこそ、日本の知識人たちの主流である「舶来の権威」を笠に「無辜の民衆」たちを睥睨(へいげい)してきた「狐」たちの戯画に他ならない
(『日本辺境論』内田樹より)・・・・


さすが内田樹。読みが深い、、、、、。と言いたいところですが、ワルモノと庶民という区分の仕方が恣意的であり、それほど単純な解釈でもないような気もします。内田さんの言う、「舶来の権威を笠に着る狐」はどこにでもいますが、果たして庶民である我々自身の中にも「虎の威を借りる」風潮が無いと言えるでしょうか。富に、昨今の日本社会中に「専門家に頼る」「支配者に頼る」ような我々自身がワルモノになっているのではないか、という気がしないでもありません。
さて、冒頭の一休さんのとんち(公案)の一応の正解は、「形にとらわれるな」という至極もっともなものですが、さて、あなたの人生経験からはどのような答が出るのでしょうか。

 

<DAIGOエコロジー通信5月号>